称えてくれよのお喚び声
- 超法寺の住職
- 4月17日
- 読了時間: 3分
皆さま、おはようございます。
すっかり葉桜と満開の桜が散ってしまいました。栄華はいつの世もあっという間に過ぎ去ります。そんなことを思いながらいつもの道を散歩していました。
今日もスッキリと晴れました。
有り難いですね。風も収まり春らしくなりました。もう4月も中盤を過ぎました。
【無常迅速】(むじょうじんそく)とは言いますが年々早さを実感しています。
我が人生も残りわずかですから今すべきことを粛々とこなしながら超法寺をお寺にするために精進するばかりであります。
昨日はあちこちから法務の依頼がありました。
今度の土曜日はお寺さんはどこも忙しいようです。超法寺は一人で切り盛りですから午前中に法務がありますと二つは対応できません。
是非午後にお願いいたしますよ。
滅多にお電話の無いご寺院から電話があったほどだったし、超法寺としても葬儀を断ったほどでした(僧侶派遣業者からの依頼です)。
皆さまには土日に葬儀を考えておられる方は日曜日がお寺さんは助かりますよ。
まぁ超法寺は比較的早めに依頼してくだされば対応はしやすいですよ。
さて前置きが長くなりましたが、今日は[南無阿弥陀仏を称えることの意味]についてお話しします。
【われ称え、われ聞くなれど南無阿弥陀、連れていくぞの親のよび声】[原口針水和上]
有名なお言葉であります。
他力本願の大慈悲心であられます阿弥陀如来さまを【親】とお聞かせいただきます。
親はいつでも我が子に気持ちを寄せてくださるものであります。(中にはそうではない方もいらっしゃるかな)
特に我が子を腹に抱いてきたお母さん(ママ)にとっての我が子はかけがえのない存在では無いでしょうか。
我が母も、おかげさまで一生かけて私を南無阿弥陀仏に寄せてくださった方でありました。
常に仏法に耳を傾けている姿を見せてくれました。また私が築地本願寺の常例布教へ出向した時は必ずわざわざ足を運んでくれた人でした。
恥ずかしがり屋さんだから柱の影に隠れてお聴聞していたようです。
私の一番の応援団だったと思います。
親は常に我が子のしあわせを案じているのでしょうか。あの手この手で導いていてくださいます。仮に我が子がなかなかそれに気づかないとしてもであります。
私は二年前に見送りましたが、母の遺品からは私への感謝があちこちに綴られてありました。
好き放題に生きてきた愚かな私ですが、母はそんな私を温かく見守っていてくれたのでした。
南無阿弥陀仏をこの愚痴の悪口にいただけるように母は心を砕いていてくださいました。
母のあの笑顔、あの優しい声、温もりは忘れられません。もっと側にいたかったなぁ。
お母さんに私が住職になった姿を見せてあげたかった。それでもお母さんの往生する場に立ち会えたことが最大の喜びでした。
何せ千葉市と入間市はかなり遠いから知らせがあってから間に合わない可能性がありました。
それでもきっと母は待っていてくれたのでしょう。
「お母さん、有難う。また会おうね」
まだ温もりのある母の手を握りながら私はそう語りかけました。
悲しすぎると意外と泣けないものですね。
今の方が簡単に涙が出てきます。
お母さんがくれたもの全てが私の宝物です。
感謝してもしきれないものだけど、南無阿弥陀仏を称えながら生きることが私ができるお母さんへの報恩感謝でありますよ。
ここ入間市で、一人でも多くの方々に南無阿弥陀仏をお称えする喜びをお伝えしていきます。
【釈迦弥陀は慈悲の父母、種々に善巧方便し、我らが無上の信心を、発起せしめたまえけり】
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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