「私」を知るためには
- 超法寺の住職
- 5月18日
- 読了時間: 3分
皆さま、おはようございます。
今日は初夏のようなお天気に恵まれました。
有り難いですね。
近隣の米軍基地[横田基地]では昨日今日と友好祭が開催されています。
昨朝に基地前を通りましたら雨でもありましたが、たくさんの方々が長い行列を作っていました。風邪引かなきゃいいけどなぁと心配になりました。
警察官もたくさん雨に濡れながら警備されていました。あらゆる行事はたくさんの方々のお力によって成り立つのです。当たり前ではありません。感謝したいものです。
さて皆さまは自身のことをよくわかっておられますか。「そんなの当然だよ」って言われるかもしれませんが、わかっているのに恥ずかしいとは思っていませんよね。それは本当にわかっているとは言えません。
仏法を聞くとは先ず、我が身を知るところからではないでしょうか。
[仏さまの教えを聞く]
お念仏をいただくということは、自己を知るということです。
仏さまの教えを聞かない人、お念仏をいただいていない人は、自身を【悪人凡夫】(あくにんぼんぶ)とか【罪悪深重】(ざいあくじんじゅう)、または【地獄行】の私とは思いません。
世の中の圧倒的多くの人は、自身を善人と思って賢い人などと錯覚して生きているのです。
私ごとですが、学生時分に「南無阿弥陀仏を称えるだけで救われるなんて、そんな簡単なものが真実の教えなんかじゃあるかよ」と疑って生きていた私を心配したのか、お寺の住職である亡き父が「それほどお前がお念仏が嫌なら、一つ約束をしてほしい。その約束は、これから七日間、朝から晩までお前が人に向けて言ったこと、したこと、心に思ったことを一つ残らずノートに書き留めてくれ。そしてそのノートをお父さんに見せることができたら、お父さんはお念仏を称えてくれなどもう言わない。でももし、お前がそのノートをお父さんに見せられない時は、約束として仏さまの教えを聞く人になってほしい。」
そういう出来事がありました。
父なりに私を思ってのことだったのでしょうね。さて私はやってみましたが結果はどうだったでしょうか。皆さまも是非やってみてください。
一度やってみたら自分が善人なのか賢人なのかわかりますよ。お念仏を称えられていたかも。
仏さまの教えは、【我が身を知る】だけではありません。地獄行きの日暮らしを毎日毎日過ごしているのに驚きもせずに生きている私を救いのど真ん中に据えて、必ず目覚めさせて救うとおはたらき続けておられる阿弥陀さまを知る。
真実なる阿弥陀さまを知るが故に、我が身を知らされ、我が身を知るがゆえに仏さまが仰がれます。仏縁に遇えるのは偶然ではありません。他ならぬ私を誰よりも大切に思っていてくださる方の切なる願いがあればこそだと私は思います。
今日も一日、南無阿弥陀仏の声を仰ぎながら過ごしたいと思います。南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
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