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執筆者の写真超法寺の住職

私、ひとりのために

[築地本願寺新報2016.3]

首都圏都市開教専従員候補者

            末田 雅裕


二年前のある新聞に、つぎのような投稿がありました。

 誕生日 生まれた日こそ「母の日」と、

 ふるさとに電話。

 母の声を聞く。

            [小牧市S.H氏]


誕生日は母の恩を思い、母に感謝する日であるということを伝えるこの詩に深くうなずきました。

皆さん、3月29日は何の日かご存知ですか?

知りませんよね。それもそのはず、私の誕生日なのです。

49年前のこの日、私はこの世にご縁をいただいたのです。その大切な記念日なのです。

どんな思いで母は私を産んでくれたのだろうか。自分の誕生日を迎える度に考えるのです。

以前、縁あって結婚をする際に、私が生まれた時の体重と同じ重さのぬいぐるみを作ったことがありました。体重を調べるために生まれて初めて母子手帳を見せてもらった時、そこには体重だけではなく陣痛が始まってから出産までの時間も書いてありました。

何と、私が生まれるまでに一日以上の時間がかかっていたのです。それを知った私は、「お母さん、大変だったね、辛かったよね」と言うと、母はにこりと笑って、「お兄ちゃん、何を言ってるの。お母さん、とっても嬉しかったのよ」と言ってくれたのです。

母がそのように思ってくれていたことを知った私は、思わず号泣してしまいました。

そして今、その私の姿を笑顔で見ていた母を思い出しています。

思えば、私に「なんまんだぶつ」を教えてくれたのが母でした。感謝ができない素直ではない私に、母は「お念仏申してね」と言い続けてくれたのです。

母の姿を思い起こす時、その母の心を知らずにいた私に気づかされました。阿弥陀さまのお慈悲は、人々の苦悩や痛みに共感しながら、人々の真実のしあわせを、わが事として願い求めてくださるお心を言います。

自分と他人をわけへだてることのない智慧に基づいて常におはたらきくださいます。

煩悩にまみれながら真実に背を向けて生きようとする私を、かけがえのない存在として見ていてくださるのですね。

一対(いっつい)ではなく一体のはたらきが阿弥陀さまなのでしょう。


どんなにはねつけようが、背を向けようが、私ひとりのしあわせのためにはたらいていてくださる親のお姿。わが子を抱いて捨てることのない親のはたらき。ですから、昔から阿弥陀さまのことを親さまと申しあげてきたのですね。

母が私に注いでくれた愛情を通して、阿弥陀さまのお心を味わわせていただきました。


【法味春秋】より



2015年に30年間勤めた実家寺を退職し、一念発起して臨んだ首都圏都市開教への道。慣れない築地本願寺での一年間の研修。朝5時に築地本願寺の本堂(外陣)の掃除から始まり、お晨朝(朝のお勤め)、9時からの研修。週一回朝の境内清掃など子ども時分に築地本願寺に住んでいたけど経験の無かったことばかりでした。

「あ〜、まさか臨時職員のように築地本願寺で研修することになるなんてなぁ」などと感慨深い思いが込み上げてきましたよ。

辛い人間関係にしょっちゅう根をあげて決心が鈍りましたが、同期の専従員候補者のO氏が励ましてくださいました。

なかなか開所候補地が決まらない。焦るばかりの私でした。静岡、千葉、神奈川、どこもNGで都内はそもそも蓄えが無かったのと、諸事情で早々に除外。また埼玉は、親戚がいるためにご迷惑をおかけしてはならないと避けていたのですが、ご迷惑をおかけすることとなってしまいました。今でもごめんなさいです。

ただ今は、この布教所のある入間市に浄土真宗本願寺派寺院をとの思いで必死になって頑張っています。

微力でしかない私を、築地本願寺の開教担当の皆さまや超法寺を大切に思って足を運んでくださる方々のお力添えにより、なんとか七年目を迎えることができました。

まだまだお寺への道は程遠いですが、もうお浄土へ帰られた両親に愚息の私が感謝を表すにはお寺を残すことだと思うが、周りからは独身子ども無しで、「子どもがいないのにお寺なんか作ったって意味がないじゃないか」と厳しい言葉を投げかけられようとも、この入間市に南無阿弥陀仏の声が響く念仏道場を残したいというのが私のたった一つの夢なのです。

後はなってから考えますよ。

ええかげんですみません。


懐かしい法話を七年後の今、改めて味わわせていただきました。うん、あの時から何も変わらないです。これが末田雅裕です。

皆さま、これからもよろしくお願いします。

そして頼りない私に皆さまのお知恵をお貸しください。お願いします。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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