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聞こえた「そのまま」のお救い

更新日:11月4日

皆さま、こんばんは。

今日はいかがでしたか?暑かったですね。

でもやっぱりあの夏のあつさではなかったですよね。

そよ風は私には心地よかったです。

ただ車の渋滞は賑やかでありました。

おかげさまにて事故もなく無事に過ごせました。

感謝です。

そして今日のお仕事を依頼してくださったご寺院には

深く御礼申し上げます。

明日もご寺院のおかげでお仕事をいただきました。

朝から横浜、午後から千葉まで走り回ります。

安全運転で頑張ります。どのような方とお出会いするでしょうか。

南無阿弥陀仏の思し召しです。


超法寺はこうやって多くの方々のおかげで維持運営することができています。

どのような案件でも呼ばれる有り難さを忘れずに今後も精進していきます。

さて今月はいよいよ30日〜築地本願寺の常例布教です。

八年ぶりですので緊張MAXであります。

今年はずっと同じテーマでお取り継ぎさせていただいています。

私が築地本願寺でお取り継ぎをさせていただく時、必ず母がお聴聞してくださいました。それも、私から見えないように柱の陰とかに身を隠して聞いてくださる人でした。もう、実際目の前ではお聴聞していただけませんが、きっと母は変わらず喜んでいてくださることでしょうね。母のあの笑顔でのお聴聞は私のしあわせそのものでありました。

伝道院を出たわけでも龍谷大学を出たわけでもない無名の布教使。

そんな私のお取り継ぎを聞きにきてくださる方はまさに善知識さまであります。


あの良寛さまは、「説法の上手下手」についてこのようにおっしゃっておられます。

話がうまい、へたを評論するのは愚かなことです。

評論家の特徴は、あれこれ批判や指摘はするものの、自分ではやらない、できない、ということではないでしょうか。

もちろん優れた評論があることは承知していますが、おおまかに言ってこき下ろしを得意とするような評論家は、その特徴が謙虚です。

文学作品を散々にけなす評論家が自分では何か一編でも文学作品を書けるかといえば、書けるわけないんですよ。


話し方にもうまい、へたがありますね。

思わず、「うまい」と唸らせる名手、和上さまもおられますが、私の布教は今までご教示いただいた先生方のお取り継ぎをいただいたものばかりであります。

ですので基本、頭で考えながら話すような手法ではありません。

皆さまも友人と世間話をしている時はきっと、「えっと」とか「あのー」とか言わないと思います。

それは頭で考えて話していないからです。身心に落とし込んだものを言葉にしているので「あのー」とかにならないのです。ですから他の布教使さまのお言葉は大変学びになります。どうしてあの先生は流暢に楽しくはなせるのだろうか。間もとても聞き心地よいのはどうしてだろうか。きっとそれは自分の言葉で語っているからなのでしょうね。借りてきた話をしようとすると無理が出てきますからね。

どんな言葉を選んでいるのか、学ぶのですね。論じていくのはやっぱり違うような気がするのです。


専門用語を使わないとか、初めてお聴聞される方にも優しい法話、っていうけど結構難しいのですよ。だって普段から専門用語ばかり使っているのだからね。

たとえば、では南無阿弥陀仏と言わないでどれだけお伝えできるか、これは厳しいな。私にはできるだろうか。私は先生じゃないから私のお取り継ぎを聞いてノートに書き留めなくてはならないようなものはきっとありません。

聞いたまんまでいいのですよ。


そんな感じでしょうか。

それではおやすみなさい。なんまんだぶつ。



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