私へのはたらき
- 超法寺の住職
- 2024年1月31日
- 読了時間: 3分
皆さま、おはようございます。
昨日はまさに無常らしい一日でありました。
さすがに頑丈な私もあちこち痛みを抱えた朝です。あ〜、生きているなぁの実感がします。
生きるってなかなか大変なのですね。
他人の痛みならどこまでも耐えられるのが私ですが、自身の痛みは些細であっても辛いものであります。
当たり前などありはしません。
それでも、痛みを超越するほどに嬉しかったのは、私のような者の法話を題材に紙芝居を作る人がいたことです。
日頃から母への恩を忘れずに母が教えてくれた南無阿弥陀仏を灯として生きています。
母への想い、ご恩をただ法話にしただけ。
「恩」は梵語でカタンニューと言い、「なされたことを知る」という意味です。
また恩という字は、因(もと)を心に思うと書きますよね。
なされたこととは、私への恵みであり私へのはたらきであります。私が生涯を通して南無阿弥陀仏を申す人生を生きているその因を心に思う時、阿弥陀さまのご本願を宗として、名号(南無阿弥陀仏)を体とした『大無量寿経』のお恵みがあり、その本願念仏の教えを私の前に明らかにしてくだされた親鸞聖人のおはたらきを喜ばせていただきます。
知恵 私へのめぐみを知り
報徳 私へのはたらきを喜ぶ
そして、私が称える南無阿弥陀仏は、亡き人に手向亡き人を供養することではありません。
亡き人のためと思いたい私が亡き人からのはたらきであったと転ぜられるのが浄土真宗のおみのりです。
念仏は、今、私の心に阿弥陀仏と
届きたもう
声の仏となりて、私に救われてくれよの願いとなりはたらいていてくださるのです。
亡き人のためと思っているうちは、南無阿弥陀仏が我が口にはなかなかいただけない。
阿弥陀さまに出遇える最短の道は南無阿弥陀仏をお聞かせいただく他にはありません。
南無阿弥陀仏は、時も処も選ばれず、しかも男子も女子も若い、お年寄りの生きざますらを超えて、常に私に寄り添いくだされる仏さま。
私が願う前に既に願いを仕上げていてくださいます。助けてくれよの前に【助かってくれ】のはたらきを声となり私に届けていてくださるのです。全部、先手の仏さまであります。
昨日は痛い時も我が口には南無阿弥陀仏が宿っていてくださいました。加害者といても、病院で診察を受けていて不安になりながらも常に南無阿弥陀仏が出ていてくださいました。
誰よりも私を一番に心配してくだされたのが阿弥陀さまでありましたね。
勿体無いですね。有難き南無阿弥陀仏。
今日も有ることばかりでしょうが、南無阿弥陀仏を灯として歩んでいきます。
皆さまも是非、称えたつもりではなくて、称えてみましょう。
だって、「お父さん」「お母さん」とはいつでも声に出ますよね。それなのに南無阿弥陀仏は声にならないなら、まだ疑っている証拠です。
信心には、
する信心と、いただく信心がある
もちろん浄土真宗の信心は他力ですから、いただく信心ですよ。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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