皆さま、こんばんは。冷えてきました。
朝からかなりの冷え込み。暦では大寒なので
致し方ありませんね。被災地はもっと寒いのでしょうね。不自由なことでしょう。
お見舞い申し上げます。
さて今日は土曜日ですが幹線道路があちこちで大渋滞で、お参りの移動に冷や汗ものでした。
大渋滞のため迂回して、滅多に使わない高速道路を使いました。お施主さまからは温かいお言葉をいただき嬉しかったです。
何とか無事にお勤めすることができました。
感謝申し上げます。
今夜は前乗りで高崎まで行く予定にしています。雪が心配ではありますが、なるようにはなりますよね。安全運転で行こうと準備しています。
[善人と思っていることが、そのまま顛倒
にほかならない]石田慶和師
皆さまは【悪人正機】について、どのように受け止めておられるでしょうか。
[善人なほもって往生す、いかにいわんや
善人をや]『歎異抄』
親鸞聖人のみ教えの中には「悪」を奨励したり
するということは全く見られません。
『親鸞聖人御消息』には、念仏を申すことになる前と後の違いを述べられています。
阿弥陀さまのお誓いを聞く前、すなわち、もとは無明の酒に酔いて、貪欲、瞋恚、愚痴の三毒を好んでいたといいます。だから、心の好むままに、身、口、意の三業をなしていたのですが、仏の教えを聞くようになってからは、無明の酔いも少しずつ冷め、三毒も少しずつ好まぬようになったとあります。
そして、煩悩具足の凡夫だからといって、身にしてはならぬことをしたり、口で言ってはならないことを言ったり、心で思ってはならないことを許すことがあってはならないと示されています。
このように、教えを聞き始めた者には、それ以前と比べて大きな変化が起きてくるのです。
[善人]とは、「自力作善の人」
[悪人]とは、「他力(阿弥陀)をたのみたてまつる悪人」
自力の行者は、自らの限界にも気づかないで、善根功徳を積んで浄土往生を願います。
それは如来の大悲の心に通う者ではありません。
「自力をたのむ心」は弥陀の本願の心に通うものではありません。
そのような人も、自力の心を翻して、他力をたのむ悪人としてよみがえることによって、初めて【真実報土】の往生を遂げる。
↓
自己の値打ちに気づくことによって初めて、本来の自己に生まれかわるのです。
善人が善人のままで往生できるのではない。
善人も他力をたのむしか道はない。
悪人であることに気づくことによって初めて、
往生を遂げるのです。
顛倒している存在だからであります。
顛とは、てっぺんの意味で頭をあらわす語。
それが倒れるということが顛倒です。
正しい見方、あり方の反対、ひっくり返るということでしょうが、それは、さらに我々の迷っている見方、あり方ということでしょう。
錯覚のことを顛倒と仏教では言います。
『百喩経』に、このような話が出てきます。
愚かな一人の男が歩いていました。
ふと大きな池の前にきました。池の中を覗いてみますと、ピカピカ光るものが見える。 男は、すぐに池の中に入ってその光っている金を取ろうとします。泥をかき混ぜたので周りが真っ暗になり、いつのまにか見えなくなりました。土手に上がり休んでいましたら、再びピカピカ光っています。もう一度入って取ろうとしますが、やっぱり周りが濁るだけで、手にすることができません。とうとう諦めて土手に上がって休んでいると、そこへ父親があらわれ息子に教えました。
それは、鳥が金を咥えて木の枝にかけた、その影が写っているのだと。
影を本物と思い込んで生きている。
しかし、それに気づかないでいるというところに私の姿があるように思います。
顛倒していながら、顛倒しているときづかない。というよりも、顛倒していることが正しく物を見る、真っ直ぐに立っているのではないでしょうか。
それでは私が顛倒している、間違っていましたとわかるにはどのようにすればいいのでしょうか。
↓
法を聞き、本当の自己の姿に気づかされるということです。
↓
仏の大悲心を受け入れていくこと。
石田師は、「真の宗教は、道徳や倫理の立場を超える。しかしそれは決して道徳以前、倫理以前へかえるのではない。道徳を超え、さらに道徳を根底で支える立場を聞くのである」と言われます。
善人と思い込んでいる自己に本当に気づくべく【聴聞】を重ねていきたいと思います。
さて、そろそろ出ましょうかね。
しかし、寒さが厳しくなってきました。
皆さまも、どうぞお風邪ひかれないように暖かくしておやすみくださいませ。
南無阿弥陀仏
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