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執筆者の写真超法寺の住職

私のはからいは不要

皆さま、こんにちは。

良い天気に恵まれました。

お洗濯日和ですね。


皆さま、年末年始のご挨拶、年賀状は出されましたか。来年こそ、「祈願」から脱却してみませんか。楽に過ごせますよ。

そもそも私たち人間の自分勝手なお願いなど真実な神仏はお聞きにはなりません。

CMで有名な「厄除け」何とかはこの年始はまた賑わうのでしょうか。う〜ん、であります。

だってそもそも「厄」って何?

知っていますか?

誤解があまりにも多いので、そこからお話ししてみましょう。

厄除けがさかんに言われ始めたのは意外にも最近、江戸時代からです。

そして厄年の起源も単なる語呂合わせ(日本人が大好きな)です。


例えば、女性の33歳は「散々」、男性の42歳は「死に」に通じるからなのです。

つまり、これといった根拠などないのです。


宗教学者の島田裕巳先生はおっしゃっています。

「厄年が広まったのは、江戸時代以降ですが、多くの人が厄年を気にかける風潮が生まれたのは、都市型の生活が普及するようになってからのことと考えられています。

女性の場合、まだ晩婚化が進んでいなかった時代は30歳過ぎには子育てが一段落していましたから、人生の中盤戦を意識するタイミングだったと言えるでしょう。」


つまり、そんなに真剣に気にすることはない、ただ気の持ちようだということではないでしょうか。バレンタインやクリスマスのイベントのようなもとと捉えたらいいんだと思いますよ。


厄年には大きな決断をしない方がいいと言われますが、これもどうかと思いますよ。

親鸞聖人は、【明日ありと、思うこころのあだ桜、夜半に嵐のふかぬものかは】と無常を言われています。

つまり、待ったなしの人生なのです。


島田裕巳先生は、「大学卒業や就職などのライフイベントがある20代と比べると、30代は生活に大きな変化が起きにくいもの。何かきっかけがないと、人生を見つめ直すことはしないものです。

20代の頃に経験を積み、人として一人前になっているはずの厄年の年齢をきっかけに、自分の思うような人生が送れているのかどうかを振り返り、もしもそうでなかった場合には必死に頑張るべきです。」と、おっしゃっています。


ダラダラと過ごすだけの毎日では、何かをしようと思ってもなかなかやれないもの。

あえて厄年を良い機会だと転換させてチャレンジしてみる絶好の機会だと思って行動できたら、その先の人生の転機となるやも知れませんよ。

実際、私は「しなかった、したつもりだった」を「思い切って実践してみた」ことで、劇的に人生が好転しました。

だからこそ、皆さまにおススメしたい。


私の都合で「厄年だから仕方ない」などと逃げのために利用することはやめたいですね。

私の人生は私だけのものだから誰かのせいにしても好転することなどないのだから、

厄年=厄災ではない。


もうそろそろ迷信を振り切って生きてみる節目にしてみませんか。

迷信は真実ではありません。「迷い」であります。そんなものをいつまでも頼りにして生きてみても結局、虚しい人生にしかなりませんよ。


 川にそって岸がある

 私にそって本願がある

 川のための岸

 私のための本願

          [東井義雄さん]


東井義雄さんは、この詩についてこう書かれています。

 どうにもこうにも頭があがらない広大な世界

 に目覚めさせていただくために、気がついて

 みると、幼い時から、ずぅっと、ずぅっと、

 そういう私によりそって、はたらきずめに

 はたらいてくださったはたらき、願いが

 あったのです。


自然(じねん)の世界は、「雨の日には、雨の日の生き方がある」と受け止める人生が持てるのだと言われますが、その通りだと思います。

【無碍】(むげ)とも言います。


それなのに、自分勝手な理由や偏見で、良いとか悪いとか困るとか、全部自分中心の生き方です。私はむしろ、雨の日にイベントがあったら、自身の普段の生き方を考えてみます。

また、そもそも私は超晴れ男ですから心配ないのですが、お天気に恵まれたら素直に喜んでいますよ。

浄土真宗のみ教えに生きるとは、「どっちでもいい。なったまんまをそのままいただき喜んでいく」というではないかと思います。


全部、あなた(阿弥陀)まかせの我が人生。


それを自分の都合でいいだ悪いだというのは、まさに自力の人生なのではないだろうか。

そう思ってしまいますね。


『歎異抄』第十六条には、

 すべてよろづのことにつけて、往生には

 かしこきおもひを具せずして、ただほれぼ

 れと弥陀の御恩の深重なること、つねはおも

 ひいだしまゐらすべし。

 しかれば念仏も申され候ふ。

 これ自然(じねん)なり。

 わがはからはざるを、自然と申すなり。

 これすなはち他力にてまします。


とあります。

つまり私たちは何ら、はからいなど持つ必要はないのです。

限られた人生であっても、私にとって、「死」は私の終点ではなく、この私のためにお建てくだされたお浄土に生まれさせていただく「身」であったと思い知らされたら、東井義雄さんのような思いで、この人生を迷信などに惑わされないで、明るさと豊かさをもってまっとうすることを一番にしたいと思います。


ですから初詣では、✖︎「祈願」→⚪︎「感謝」

と、お参りしてみてください。

きっと神さまも恵比寿顔でお喜びくださるはずですよ。

それから、おみくじを引いたら枝に結ばずに、財布や手帳に入れて、自分の人生の糧にしてくださいね。何とか運って書いてあるのが、神さまからのお願いですから。

神さまのお願いを聞かないで、どうやって幸せになるつもりでしょうか。そうですよね。

大丈夫です。勝手なこと言っていませんから。

ちゃんと九州の某天満宮の宮司さんにお聞きしましたから間違いありません。


疑わずに素直に受け入れて生きていくことを実践してみてください。

もちろん阿弥陀さま(仏さま)の願いも同じくして南無阿弥陀仏を我が口に称えながら生きていくのです。

ナンマンダブツ

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