私がすべきは「随逐」
皆さま、こんばんは。
連休はいかがお過ごしでしたか?
高速道路はまた大渋滞していましたね。
いつになったら学習するのでしょうね。
運転手の方にはお疲れ様でございます。
車中でケンカになどならなかったでしょうか。
「まだ着かないの?」、「あっちの車線の方がはやいんじゃないの?」、「もう帰る」などという言葉は助手席の方は特に注意したい。
運転手だってそう思ってハンドルを握っているのですから。イライラして些細なことでケンカになってしまいますよ。
助手席の方は運転手を励ましてくれる人が座る場所なのです。
どうぞご家族仲良く、楽しく旅行されてくださいね。
お彼岸ですので、お彼岸らしいものをご紹介しますね。
故桐溪順忍和上は、人から色紙を依頼されると、いつも『涅槃経』の、
【如来の慈悲は 随逐すること犢子の如し】
という言葉を好んで書かれていました。
※随逐(ついずい)とは、あとを追い、従うこと。
※犢子(とくし)とは、仔牛のこと。
仏は自らを仔牛にたとえて、われわれ衆生のゆくところ、常について離れることがない、それが如来の慈悲であると説かれたものでしょう。
妙好人の浅原才市さんは、
「わたしゃあなたにおがまれて たすかってくれとおがまれて ごおんうれしや なもあみだぶつ」と詠っています。
私たちが仏を拝む前に、仏の方から拝まれていたという事実、仏の方から願いがかけらていたのであり、一人子のように慈しみ信じられていたということに気づいたとき、私たちは「驚き感動」する以外にはないのです。
つまり、私たち(仏法を聞かない者)がなぜ、神様や仏様を拝み、祈祷しても思うようにならないか、おわかりですか?
そう、反対なことをしているからなのです。
私が願う前から神仏から願われているのです。
そのことを知らずに、わからずだから、いつまで経っても親心がわからないまんまだったのです。
ご先祖は、私たちに墓参りをしてくれなんて願ってはいないのです。神仏から願われているということに早く気づいてくれよ、と願い続けておられるのです。
お彼岸とは、私の往くべき道を知るための大切な仏教行事なのですね。
お寺参りできない方はせめてYouTubeで法話を視聴していただきたいですね。
宣伝ですが、築地本願寺のひとくち法話「たのむ」は住職の唯一の法話です。
わからんまんま、そのまま来いよとはたらき続けておられる阿弥陀さまの願いを聞いて、生きていて良かった、私は私であって良かったと思えるそんな人になっていただきたいと願っています。
今日はこの辺りで。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏