「本願力にあいぬれば 空しく過ぐるひとぞなき 功徳の宝海(ほうかい)みちみちて 煩悩の濁水(じょくすい)へだてなし」(高僧和讃)
死ぬまで煩悩(欲望)から逃れられない凡夫を浄土に生まれさせ仏にするという不可思議な阿弥陀如来の本願力に(ナンマンダブツ)遇えば、この人生を空しく過ごすことはありません。清濁(せいだく)を受け入れて一つ味にする、海のような働きであります。これが如来の功徳(宝)がこの身に満ち満ちて濁った水の如き煩悩(欲望)も、何の妨げにはならず、浄土に生まれて仏になるという、意味と目的のある充実した人生を歩ませていただのです。
「一日の空過(くうか)は、やがて一生の空過」
一日一日が空しく過ぎていきます。そしてやがて、一生も空しく終わっていきます。
「財もなり 名も立ちにしか 老いせまる この老醜(ろうしゅう)の深き空しさ」
新聞の投稿にありました。よく味わってみましょう。
私の人生に意味と目的がなければ充実した人生を歩むことなどできるはずはありません。どんなに豊か(お金があっても)でも、どんなに若さと美貌を持っていようとも、どんな元気さを持っていようとも、必ずいずれ皆うしなっていきます。
そして長生きすることに重きを持っていても、自分が長生きすると言うことは自分が知っている懐かしい人、友人、親族を皆見送ると言うこともよく理解しておきましょう。まさに浦島太郎のような結末が我が身に起こるのです。
人生そのものの意味、目的は人間の知恵ではわかりません。
病弱なる老婦人の賀状に、
「み仏さまは、私に一番良き人と、良きものと、良き宿業をお授け下さっていました」と書いておられました。
この方は、周りの人・もの、そして自分の今日までの人生をも拝んでおられます。
まさに、お念仏に遇えた人ですね。
「ちょうどよい」
お前はお前でちょうどよい
顔も体も名前もせいも お前にそれはちょうどよい。
貧も富も親も子も 息子の嫁もその孫も それはお前にちょうどよい。
幸も不幸もよろこびも 悲しみさえちょうどよい。
歩いたお前に人生は 悪くもなければよくもない お前にちょうどよい。
地獄に行こうと極楽に行こうと 行ったところがちょうどよい。
うぬぼれる要もなく 卑下する姿もない 上もなければ下もない
死ぬ月日さえもちょうどよい。仏さまと二人つれの人生 ちょうどよくないはずがない。これでよかったといただけた時 憶念の信が開かれます。
人生に悩む時、モヤモヤが止まらないそんな時に、是非繰り返し読んで味わいたい、そんな詩だと思いました。人間である以上、常に不足を感じてしまうものですが、
これは自分にちょうどよいんだと思えたら素直にそれを受け入れていく勇気が出てきませんか。だって、人は自分のために、自分の思いの中に生きる生き物だから、他人の言うことなんかに真剣に耳を傾ける必要が果たしてあるものでしょうか。
それは我が身にナンマンダブツを常にいただく人の言葉でないなら余計にそう思います。
すべては阿弥陀如来の大きな大きな慈悲のはたらきによってある私の人生です。
二人三脚で無常世界をご一緒くだされます。常に私の本当のしあわせを願っておられるのですから不足を思わず、不足を言わずにそのままを受け入れて、「これは私にちょうどよいんだ」と言い聞かせて生きてみませんか。
きっと良い人生が開けてくると思います。
欲は出しすぎると恐ろしい。そんな気がいつもするのです。
ナンマンダブツ、ナンマンダブツ。
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