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執筆者の写真超法寺の住職

私だけでいいのかな

この度も、仏教を開かれたお釈迦さまのお話をご紹介します。

ずっと、この話が大好きで何度もブログにてご紹介していますが、

多くの人に知っていただけたらと思います。

難しく聞かないでください。

仏さまは私たちのすぐ側であらゆる手立てをして語りかけ、自覚を促していてくださいます。


【共命鳥】(ぐみょうちょう)

インドのヒマラヤ山に、体が一つで頭が二つの鳥が住んでいました。

体の特徴から共命鳥と呼ばれていました。

共命鳥の片方の頭は、いつも美味しい果実を食べ、ひたすら命の安全と肉体の健康に注意を払っていました。もう一つの頭は、美味しい果実が欲しかったけれど、手に入れることができずに、ついに人を羨ましく思う心を起こして考えました。

「あいつはいつも美味しい果実を食べているのに、俺は食べたことがない。よし、あいつを苦しめてやろう」と、こっそり餌に毒を混ぜて片方に食べさせました。


相手の苦しむ顔を見ながら、ほくそ笑んだ瞬間、自分も苦しくなってきて、ついには両方共に死んでしまいました。


この話は、表面的に理解しようとすると一見ショッキングな結末になっていますが、中味は悪いお手本のお話で、深いたとえとなっていて、尊い因縁を説いています。

共有している命であることを忘れて、自分一人の命と思い上がって生きていると誤ったものの見方によって、頭で勝手に自分だけの狭い考えに囚われたことで、「自分だけに都合の良いことをすると破滅してしまう」という表現になっています。

仏教では【因果応報】とも言います。


【共命鳥】は本来、体が一つ、頭が二つ、ともにいきているという象徴です。

一つに命を共有しているのです。そのことから「共に生き、共に栄える精神が大事」とおしえてくださっているのです。

もう一つは、「煩悩である嫉妬心が生じて、怒り・妬み・憎しみの心が根っこにあるからだ」とお示しくださって、「相手を思いやる利他の心がもっとも大事だよ」という生き方を説いているのです。


どうですか?私たちの命は私のものでもあり、その命をくださった方の大きな願いも一緒にある。そのことにどうも気づかずに粗末に扱っている人が他人を傷つけ、命を奪い合って悲しみの底に堕ちていっているようなきがします。

人間は決して一人では生きられないのに、自分にいっときの感情で相手を傷つけていることも忘れて、いかにも自分の考えが正しくて相手はいつも間違っていると自己判断をしてはいないでしょうか。鏡のように、私は私の本当の姿は映してはくれません。ではどうすれば本当の自分に気づけるのかを、お釈迦さまは仏法を聞きなさいとオススメくださっています。

この世は人間だけでいきているのではありません。多くの命に支えられてこその命であります。

私たちはいつのまにかそのことを忘れ、「自分だけが良ければいい。邪魔な存在は無くしてしまえばいい」という自己中心的な考えや思い上がりが、ぐるっと回って私の身に返ってくるのです。それを仏教では【因果応報】というのです。


私はいつも自己中心的なものの見方をしているなあ、と感じた時にこの【共命鳥】の話を思い出して味わっています。

どうでしたか。この度も難しいかったでしょうか。何度も繰り返し読み味わうことで少しずつ身心に落ち込んでいくもの、それがお説教、仏法ではないかと思うのです。


あなたにとっての共命鳥の片方の頭はどなたなのでしょうか。


一緒に考えてみませんか。ナンマンダブツ

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