「仏になる」
私というものは、他によって生まれ、他によって生かされています。
自分の力は限りなくZEROに近いものです。
すべては他によって私というものがあるのです。
この「縁起」の道理・法が本当に知られたならば、他のしあわせ、他の救いを願うのは当たり前のことではありませんか。
子どもに縁(よ)って親とならせていただけたのであれば、親が子どもの仕合わせを願うのは当たり前でしょう。親に縁(よ)って子どもになったのであれば、子が親の仕合わせを願うのは当たり前です。
このつながり、縁が無限に広がっていくのです。
地球上のすべての生命と、全ての人々とのつながり、縁の中に私が生まれ私が生かされている。それを知ろうが知るまいが、それを受け入れようと受け入れまいと、事実はそうなのです。
そのすべてのものの存在を縁として、私というものがあるのですから、人間はそのすべてのものの仕合わせを願う仏に成ることを、究極の目的として生きていくのが、人間としての生き方なのです。
宮沢賢治さんは、「世界が、全体しあわせでなければ、個人のしあわせはあり得ない」と言われました。
これが真実です。
頭で知るを「知識」という。
心と身体で知るを「智慧」という。
私たちはこの縁起・無常・無我というこの世の道理(法則)は、頭では理解し、知ることもできます。しかし、この身と心が動きません。動くどころか、この身と心はこの法、道理に反して動きます。故に苦悩は絶えないのです。
これを罪悪の凡夫とか、煩悩具足の凡夫といいます。
他によって生かされながら、自分の力で生きていると思いあがり、自己中心の我執我欲の心で生きていきます。無常なのに、いつまでもこの世にあり続けることを願い、目先のかいらくばかりを追い求めています。無我なのに、今の自分を確かなものと思い、自我を主張し他を傷つけ、自らも傷つきながら苦悩の人生を生きているというのが、人間(凡夫)のあり様です。
その仏に成る道に、二つの道があるように説かれています。
一つが、自ら修行してこの道理を学び、自己中心の煩悩を断ち仏に成る道。
これは、自分の力で証(さとり)を開くのですから、【聖道門】(しょうどうもん)といいます。
二つ目が、すべてのものの仕合わせ、すべてのものの救いを願う仏さまを、お念仏として我が身にいただき、その仏さまの力で、浄土に生まれ仏に成る道です。
これは仏さまの利他(りた)の力によって仏に成るのですから、他力の教えといい、
浄土にて仏に成るので、【浄土門】(じょうどもん)といいます。
自力聖道門の道は、自分に修行して自己中心の煩悩を断ち、仏に成る能力、力があるというのが前提です。そこで自ら仏に成ろうという心(菩提心)を起こし、修行して自らの力で証(さとり)り、仏に成る教えですから、自証教(じしょうきょう)といいます。
他力浄土門の道は、これとは真反対の道です。
仏さまに救われて、仏さまの力、他力によって、悪人凡夫が浄土に生まれ、仏に成らせていただくという教えですから、救済教(きゅうさいきょう)といいます。
凡夫たる私には、証(さとり)を求める心などありません。もちろん修行する力もありません。ただ自己中心の我欲の心で罪悪を重ねて、苦悩の生涯を歩むことしかできません。その煩悩具足の凡夫たる私の姿を知見された、仏さまが動くのです。
仏さまがはたらくのです。仏さまが相(すがた)を変え、人間に称えられる南無阿弥陀仏という相となって、煩悩具足の凡夫の私を救ってくださるのです。
凡夫の身に届き、住みつき、口に称えられ、罪悪の身を照らし、そのままを抱いて「まかせよ、必ず救う」と呼んでくださる仏さまです。
その仏さまのはたらき、仏さまの力(他力)を、お念仏として我が身にいただき、仏さまの仰せのままに、私もこの身のまま浄土に生まれさせていただき仏に成りますと、
今を生きていくのです。
仏さまに抱かれ、仏さまと共にある大きな安心の中、浄土に生まれ、必ず仏に成る菩薩の人生を歩んでいくのです。あなたまかせであります。
救っていてくださる喜びを常に持ちながら、ナンマンダブツと声にお称えさせていただきながら、ご恩報謝をしつつ、他人さまのお役に立てるようにと生きていきます。
これが他力浄土門の、浄土真宗という仏に成る道なのです。
ですから超法寺は、住職たる私は、一人でも多くの方々にこの素晴らしいみ教えを
お伝えしながら、少しでも皆さまの悲しみに寄り添って歩んでいこうと常に考えています。最近めっきり涙もろくなった住職ですが、人間らしいとわらってください。
人間だもの。
南無阿弥陀仏、ナンマンダブツ
おやすみなさい。
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