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執筆者の写真超法寺の住職

白骨となれる身

皆さま、おはようございます。

昨日は伯父さんの葬儀、火葬場、収骨までお参りしました。不思議な空間でした。

ずっと知っていた伯父さんがついなお骨になってしまいました。91歳とは思えないほどしっかりとしたお骨でした。


改めて蓮如上人の『御文章』[白骨章]をお味わいします。


夫(それ)、人間の浮生(ふしょう)なる相を、つらつら観ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期なり、されば、いまだ萬歳の人身(にんじん)をうけたりといふ事をきかず、一生すぎやすし、いまにいたりてたれか百年の形躰(ぎょうたい)をたもつべきや、我やさき人やさき、けふともしらずあすともしらず、をくれさきだつ人は、もとのしづくすえの露よりもしげしといへり、されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり、すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちにとぢ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそほひをうしなひぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりて、なげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず、さてしもあるべき事なら子(ね)ばとて、野外にをくりて、夜半(よは)のけふりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり、あはれといふも中々をろかなり、

されば、人間のはかなき事は、老少不定(ろうしょうふじょう)のさかひなれば、たれの人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀佛をふかくたのみまいらせて、念佛まうすべきものなり、あなかしこ、あなかしこ



名残惜しく思えども、娑婆の縁尽きて力なくしておわるとき、かの土へはまいるべきなり。

              『歎異抄』


死ぬまで【煩悩】から離れられない【凡夫】たる私たちお互いは、自らの力では往生することはできません。

だからこそ阿弥陀如来は【ご本願】をお誓いになり、【南無阿弥陀仏】を称えるはたらきにより私たちを間違いなくお浄土へ生まれさせ仏にならせていただくのです。


私たちの努力は必要ありません。

【修行】も【信心】もすべて【南無阿弥陀仏】の中に備えてくださいますから、ナンマンダブツと声に出してお称えすることで間違いなく【往生】させていただくのです。



伯父さん、生前一緒に南無阿弥陀仏をお称えさせていただきましたのが懐かしいです。

既に還相(げんそう)の仏となり、南無阿弥陀仏を称えてくれよ、とおはたらきくださっておられますよね。

また必ずお浄土で遇わせていただきます。

それを楽しみとして、残りの人生何ができるかを問いながら強く明るく生きていきます。

本当に長い間ありがとうございました。

「マサ君」といつも呼んでくれて嬉しかったです。寂しいけど嬉しい。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏



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