皆さま、おはようございます。今朝は春一番が吹き荒れる寒さであります。
いよいよ春になりますね。ということはしばらく忘れていた「花粉」もお越しになるのですね。このように生きるとは思い通りにはならんことを改めて知らされます。
さて今日は定期検診で今年初の千葉市へ行ってきます。
まだまだ先ですがいずれはこちらで検診を受けるようになるのでしょうが、まだ
我が故郷まで通いたいですね。
まだ執着があるようです。まあ30年住んだ街だからお許しくだされ。
もうあそこには父も母もおいでくださりませんが思い出だけはたくさんあります。
あっちにもこっちにも思い出のかけらがたくさんあるのです。
今回は馴染みのお店に行ってきたいですね。本千葉駅前のあの店に。
ポートエリアにも行けたらいいな。でも築地まで定期検診も行かなきゃ行けないからな。いつも一日中かかってしまいますよ。でもそれもまた楽しいよ。
忘れ難き故郷、とは歌ったものですね。
さて、私たちはどこから来て、どこへ行くかわからず生きているお互いです。
常に無明の闇に閉ざされて虚しく寂しい人生を生きてそう遠く無い時にこの世を終えて行こうとしています。五濁(ごじょく)の世に生きて毎日、憎いだ、可愛いだ、好きだ嫌いだ、損した得したと煩悩に振り回されているこの私であります。
そして、その右往左往して生きている私を心配通しに気にかけてくださるのがナンマンダブツのお念仏の働きでありますであります。
自分の殻に閉じこもっている私を見捨てられずに「気づいてくれよ」の願いが、はたらきがございます。「私が」の「我」に埋没している私をナンマンダブツは抱き続けてくださいます。
昨夜の築地本願寺常例でもご講師(師匠の子どもさま)がお取次くださっていましたよ。お聴聞ってやっぱりいよね。皆さまも是非YouTubeで視聴してくださいね。
ひとりじゃない。この苦悩とご一緒に生きてくださる阿弥陀さまの願い、働きはナンマンダブツという声となって届いていてくださいます。
どこまで行っても、地獄行きの生き方しかすることのできない。そして地獄行きの所業は自分じゃなくて他人であり、自分は間違いないと誤解して生きている罪悪深重のこの私。死んで助かるのではありません。
今ここでナンマンダブツをいただいてあ助けをいただくのです。
いただいた証拠が我が口(愚痴や悪口ばかりの)にナンマンダブツの声となってくださいます。
ナンマンダブツが声に出てくださる方はもう阿弥陀さまのお願いが届いている方です。まだの方はまだ受け入れずに自分が頑張って生きておられるのですね。自分はダメです。地獄へ一直線であります。
地獄行きの私を見捨てておけぬ親の願いがナンマンダブツと聞いてください。
そうなれば「我」の生き方が少しずつですが変わっていくことでしょう。
生きることだけを見つめて生きるんじゃ無い。
「生死」出づべき道を【生死一如】(しょうじいちにょ)と、常に「生」と「死」を切り離さずに考えていくのです。切り離すから自分の人生が不足になってしまうのです。これが昨今の未成年の凶悪犯罪の増加と(生死を生きる姿を我が子に教えられない親があまりに多い)自殺(今は自死というようですね)の増加と行方不明者の増加が目を引きます。命の尊厳は一体どこへ行ってしまったのでしょうか。
考えずにはおれません。
「死んだらおしまい」なんかじゃありませんよ。【生死一如】です。
今は亡き、永六輔さんが1994年に『大往生』という書物を出され数百万部も売れたのです。買った人もおられるのでは無いでしょうか。
ただし、どれくらいの人が「大往生」は死ぬことでは無いと理解したことでしょうか。【往生】とは、読んで字の如く、【往って生きる】ことであります。
西方浄土に往って生まれるのです。
死ぬ(死ぬのは私が抱えている煩悩が死ぬ)のではありません。仏になる(成仏ともいう)。
浄土真宗のお寺に生まれ育ったのに、坊主になりそこなった私(永六輔さん)は、それなりに「死」を身近に考えてきた。・・・・・その頃、出演していた子供相談室で、「どうせ死ぬのに、どうして生きてるの?」という質問に絶句した。
父(住職)だったらどう答えるだろうか。この子の質問に答えるための本にもしたいと思う。これは永六輔さんが『大往生』のはしがきに書かれたものですが、実に大変な問題提議だと思います。『大往生』という数百万部も売れたというのに令和の今でもこの問いの解決をされて生きている人がどれだけいるのでしょうね。
「本当に読んだのでしょうか」とお聞きしたいです。
読んでも自分のことと受け止めずにいたら結局わからず知識だけ備わった形で終わっているのかもしれませんが、それではいけません。
この問いに答えられてこそ、豊かで幸せな人生を歩んでいると言えるのでは無いでしょうか。T大を出てもお金に振り回されて自分のすべき仕事を忘れている人がテレビやネットを連日騒がしています。これが人間に生まれた意味なのでしょうか。
目的地のない旅は放浪と同じです。
トルストイが言われた「生ける屍(しかばね)」の人生です。
【空過】(むなしく過ぐる)の人生です。
そのような人生に生きる意味や価値も見出せるはずはありません。
これこそ、仏法聴聞する他にはありませんよ。
「生」と「死」は表裏一体であります。
生きているのは生きる意味があるからです。
その意味を知るのは「死」を知るからだと思います。
人間も死ぬまでは死にませんよ。
何をすればいいか。【生死出づべき道】を知ることであります。
これが私がこの世に生まれた意味です。生きる私が知るべき道です。
そして大切な人、往生された人が私に問いかけていることなのです。
それを踏まえねば、聞いても聞いただけで終わってしまいます。
それでは勿体無いですよ。
南無阿弥陀仏、ナンマンダブツ。
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