生死出ずべき道を知る
- 超法寺の住職
- 5月26日
- 読了時間: 4分
皆さま、こんにちは。
週末は我が街入間市に天皇陛下がお越しくださいました。光栄でありました。
ネット動画で車中から手を振られる天皇陛下のお姿を拝見し大変幸せ気分になりました。
また茶畑をごらんになられた天皇陛下は、「狭山茶はほとんどを入間市で作っているのに狭山茶とは」と、仰っておられました。
さてきちんと説明をされたのでしょうか。
「元々この辺りは狭山と言われていました。ただ市政発足時に先に元々は入間と言われていた地域の方が狭山市としたからですよ」と。
地域と市名が違うなんて何かヘンテコです。合併話の時も平等合併じゃなく否決になった経緯も嫌は残念な話です。本当なら所沢市や川越市のような規模になれていたはずだからな。
でもこの入間に住んで八年、すっかり我が街になりました。
このように私たち人間が生きていく中、全てが正しいとは限らないのですね。
本当の目的は、私たち一人一人が親から賜った生命を100%を生きることができるかどうかではないでしょうか。
動物は「死」を知らずに生きていますから、死するまで精一杯を生きていくのです。だから諦めたり、後悔することなどありません。
私は豆柴と一緒に暮らしていますが、私が彼らに教えるより、私が彼らから学ばせていただくことばかりでありますよ。
「犬畜生」などと卑下することなどありません。妙好人の一人、源左さんではないですが、「南無豆柴如来」であります。
これは大袈裟でも何でもありません。
彼らこそ、私を仏縁に導いてくれたのです。
真剣にお聴聞する私になれたのは彼らのお導きですから。善知識です。
自分が何処にいるのか[無常世界]、どちらに向いているのか[地獄行きの毎日]。
その時、欲を満たせればいい。お腹が空いたら腹いっぱい食べて満足し、太れば痩せたいと悩む。お酒が大好きで毎日晩酌をし、病気になればまた悩む。人間の欲はいつも逆の結果を産み、良くなればケロッとしてまた繰り返す。
こういう生き方は動物は決していたしません。
私たち人間は、自分の身から「毒」を出し、その毒を好みながら自分自身を「中毒」にしているのです。
仏教では、【貪、瞋、痴】三毒の煩悩と言います。上のような生き方をしている人が生きている世界を【三悪道】と言います。
「犬畜生」と卑下する人に良く知って欲しい。
【貪り】(むさぼり)の毒に冒されている
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【餓鬼】と言います。地獄に行きます。
【怒り】の毒に冒されている
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【地獄】と言い、[自業苦](じごく)やはり地獄に行きますから天国には行かれません。もちろん虹の橋など渡れるはずはない。
【愚かさ】(痴)の毒に冒されている
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【畜生】と言うのです。犬や動物だけではないのです。
〇人生で一番大切なもの
浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、大きな「いのち
」、大きな慈悲【摂取して捨てない】を、【阿弥陀と名づけたてまつる】と教えてくださいました。
【そのような大きな慈悲が今、現に私に届いていると言うことを教えんがためのお姿が阿弥陀如来であります】
ただ、このお姿(阿弥陀如来)を拝んでさえいれば良いことがありますよとは仏教では言いません。
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このお姿を通して、大きな慈悲の世界に目覚めていくのであります。
南無阿弥陀仏を私を目覚めさせていく大きなはたらきと受け止めていくのです。
決して煩悩に埋没して生きていくのではありません。真実なる我が身を知らせて、まかせてくれよ、我が名を称えてくれよと願い続けておられるのです。そしてあらゆる命は全て繋がっているんだということを忘れずにいることを教えでいてくださいます。
ですから、悪道を歩む人は自分さえ良ければそれでいい。他人がどうなろうと自分には関係ないと恥じることもない、そんな人は死んでも往生することなどありません。あまり仏さまを見くびらないでください。
死ねば仏?三悪道に埋没して生きる人には用事はございません。生死出ずべき道はこちらからの話ではありません。他力(阿弥陀如来)の一人ばたらきです。気づけない者や目覚めていくことの無い者はどうにもなりません。
それでも阿弥陀さまは諦めはしません。何とか目覚めさせようとはたらいていてくださいます。
是非お参りください。すぐにはわからなくても大丈夫です。
われ称え われ聞くなれど南無阿弥陀 つれてゆくぞの親のよび声 [原口針水和上]
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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