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「生まれてこなければ」

皆さま、こんばんは。雨が降ってきました。

このまま梅雨に突入するのでしょうかね。

時期的に何もおかしくはありませんよね。

これを乗り越えれば皆が大好きな[住職も大好きな夏]夏が来る〜🎵

しかし、あっという間に半年が過ぎましたね。

駆け足で過ぎていく我が人生は残りいかほどかな。

そんなことを思いながら雨音を聞いています。


さて先日ある方から言われた言葉が心に響いています。もちろん良い響きじゃないんですよ。

[私なんか生まれて来たくなかった]

皆さまもそう思っていますか。

この人生は【無常】を知るためであります。

そして何より阿弥陀さまにお遇いさせていただくための時間だと思うのです。今まで、ずっと生死の境を繰り返して来ました。

何回?いや何千回、何万回、それ以上の気が遠くなるほど私たちは迷いの命を歩んできました。仏教では【地獄】→【餓鬼】→【畜生】→【修羅】→【人間】→【天上】という六つの迷いの世界を生き死にしてきたのです。

その間にも南無阿弥陀仏の阿弥陀さまは、ずっと私にはたらいていてくださいました。

『正信偈』和讃に、弥陀成仏のこのかたは、今に十劫へたまへりと、十劫[四十里四方の岩の上に天女が三年に一度とも百年に一度とも言われますが降り立ち、衣の裾で一撫でして摩擦で擦り切れ削れて無くなる時間を一劫と言い、それが十回繰り返されたほどの時間]も過ぎていると言われますから、本来ならばもうとっくにお浄土へ生まれていなくてはならないはずの私なのに未だに娑婆世界、人間の世界で思い通りにならない命を思い通りにしようと日々悩み苦しんでいる、それを【煩悩具足の凡夫】というのです。


南無阿弥陀仏に遇うとは、【聞其名号】(もんごみょうごう)ともいい、南無阿弥陀仏の声を聞くことです。なかなか聞けないものです。

これだけネット社会になっても、YouTubeやTikTokなどのSNSが溢れていてもほとんどの人は観ることもなくスルーしていますよね。

また身内に不幸がありましても最近では、親が子どもの学業を優先して通夜や葬儀、年忌の場に会わせない気がします。

ある時には、「子どもが泣くので置いてきました。」というお母さん(ママさん)がいました。それでなくても阿弥陀さまとお遇いすることが難しいというのに、これでは勿体無い。


仏さまは、あの手この手を駆使して私を仏法の場に私を遇わせようとされています。それも昨日今日の話ではなくて十劫という気が遠くなる昔から、お釈迦さまがお生まれになるはるか昔から【自業苦】[地獄]を自ら作り自ら苦しんでいるこの私のために願いを建てられ、[まかせよ、救う]と喚び続けていてくださるのです。それなのに遇わずに生きてその挙げ句、[生まれてきたくなかった。生きていてもろくなことがないよ。死んで楽になりたいよ」などと泣いている人があります。

お釈迦さまは悟りを開かれて【人生は苦なり】と明らかにされました。これが私たちの生きる人間世界の真実なのです。でも苦しいと思って生きているのは思い通りに生きられない人、不足ばかりで幸せな人生もあったのにそこには目を向けられずにいる人であります。

若いから、そんな長くはないよ。

暴飲暴食してストレスをためて、毎日飲酒、毎日喫煙した挙句に【病】になるとビックリしたりするのが人。

祖父母、両親がこの世から居なくなる。それはつまり私が必ずこの世からいなくなるという証拠です。それなのに阿弥陀さまを避けて生きているなんて実にナンセンス。でもそう思って生きているのが人。皆さまはどうですか。


『歎異抄』に、

なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて力なくしておはるとき、あの土へはまひるべきなり。

と言われています。

これを仏教では自然法爾と言います。

自然と書いて[じねん]と読みます。

是非この意味を問うてみてほしい。


十劫も生き死にを繰り返していても南無阿弥陀仏に出遇うことのなかった私が遇えたのは、恩師曰く、「阿弥陀さま、あなたがあまりにしつこいのでもうあなたに背くのはやめにします。」と白旗を上げたようなものだと言われます。どうして阿弥陀さまはそこまでされるのでしょうか。私は救って欲しいなどと頼みもしないのに。どう思われますか。

阿弥陀如来は、他力本願という願いのままに仕上がっている仏さまだからです。願いとは、「あらゆる命を南無阿弥陀仏一つで必ず救う。もし一人でも救われないなら私は悟りの仏にはなりません」という誓いであります。


頼まないうちから願いを建て、先手の救いを死ぬまで煩悩から離れられない私のために成就して届けていてくださいます。それが南無阿弥陀仏の声であります。また南無阿弥陀仏の声を聞いた場が葬儀や年忌だとしたら、まさしく皆さまの先立っていかれた人が縁となり阿弥陀さまの真実の信心を届けてくださったのです。

つまりは諸仏のはたらき、つまりは亡き人は南無阿弥陀仏だという事です。

ここに気づけたらかなり素晴らしいことです。


これがわからないからお墓で眠っているとか、地獄からお盆に帰ってくるとか言いたくなるんですね。お恥ずかしいですよ。

これではお父さんもお母さんも喜んでなんかいるはずありません。残念!


だからこそ仏法を聴聞する機会を怠ってはならないのです。それをご先祖はお彼岸という行事を通して私に知らしめているのです。

私の口から南無阿弥陀仏が出てくださることは、救われない私[死ぬまで煩悩から離れられない]が阿弥陀さまの本願他力によって救われた喜びを声にしているのです。

皆さまも、「めっちゃ嬉しい」時には黙ってお礼はしませんよね。「あなた、ありがとう!」その声こそが南無阿弥陀仏と六字の言葉となってあらわれてくださるのだから。


蓮如上人は、【御恩報謝の念仏とこころうべきなり】と言われていますよ。


せっかく生まれ難い人間に生まれることができて、この歳まで親が苦労して育ててくれたのに、そこに感謝の思いがないからこそ[生まれてきたくなかった」などと言うのです。

辛いことばかりでも、お釈迦さまは[人生は苦なり]と言われているのです。この世で悟りを開かれた真実の仏さまが、人生は楽なりなどとはおっしゃってはおられないのです。

歌手のさだまさしさんは、「あー、苦しくていいんだ」と受け止められて生きることが楽になったとおっしゃいます。

だから映画で失敗してどん底の苦しみ[数十億円の借金苦]を味わったのに音楽三昧の人生で借金を返すことができたと喜ばれています。


人間に生まれた以上、苦しみ悩みからは決して逃れられないのです。これを無視して自分勝手な偏見の殻に閉じこもっているから不足、悲観ばかりの生き方になってしまうのでしょう。

私はそう思いますよ。


生きたくても生きられない人は世の中にたくさんいますよ。その人たちに申し訳なくないかな。関係ないなどと言って心が痛みませんか。

しかしながらこの世は、死にたくてもそう簡単には死ねない世の中となってきました。医学の進歩がそういうことになりました。ただし、それでも全快するとは限りません。

生きるままに生きていくのです。


某ミュージシャンが「吾輩は10万23歳」と音楽番組で言われたのが気になっていました。ある医師が人間が人間と生まれることが遺伝子のレベルで決まるのが母から生まれる十万年前なんだと言われました。ひょっとしたら某ミュージシャンはそのことを知っていて[某W大卒]、年齢に十万としたんじゃないかと思っています。[確認はしていませんが]


こんなことを考えていたら申し訳なくて「生まれてきたくなかった」などとは言えないはず。少なくとも私は亡き父母には感謝していますよ。もちろん多少の不満は無いとは言いませんが、お釣りが来るほどの喜び、しあわせをいただきましたからね。どうか仏法聴聞をすることを知って【知足】を知るあなたになってほしいです。


あ、こんな時間に。背中が痛くて辛いけど、生きるとは苦しいのです。お釈迦さまが教えてくださいましたよ。苦しいとは生きている証拠ですからね。南無阿弥陀仏

おやすみなさいませ。

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