皆さま、こんばんは。
今日も暑かったですね。
ニュースでは熱中症で搬送された方がたくさんおられたと報道されていました。
確かにこの炎天下に無帽子で歩いている方をたくさん拝見しましたよ、入間市の話ですが。
油断は禁物ですよ。
さて、先の盂蘭盆でのことです。
初盆では、地獄の世界(餓鬼道、等活)をお話ししました。また幼少期に、嘘をつくと父から舌をペンチで挟まれた痛い思い出話もしましたが、何故でしょうか、皆さま笑っているんですよね。苦痛で顔を歪ませる方がおられないんですよ。想像すらしないのでしょうか。
仏法聴聞とは、嘘言戯言を聞くのではないのですよ。我が身のことと思いながら聞いていくものですが、それすら今の方はご理解いただけていない気がするよ。
それでは慎むことも戒めることもないような気がします。
いかがでしょうか。
浄土真宗が聞く宗教というのは、仏法聴聞できる、そしてそれを人生の糧とすることを大切にするためだからなのです。
亡き人のために聞くのではなく、亡き人の願いとして今生きている私が仏さまのみ教えを聞くためなのです。
誰かのために聞くなどと誤解しているから地獄の話も笑って聞けてしまうのではないでしょうか。
自分のことで、自分の苦悩として受け止めていくからこそ真剣味が出てくるのだし、戒めることにも向かっていけるのではないかと私は思うのです。
浄土真宗の門徒とは、何より仏法聴聞を大切にして生きていくものだと思うのに、何かお寺へ行くことを怠り、集まりを主宰することばかりを大切にしていないのでしょうか。
門徒式章をかけるということは、何よりも菩提寺の寺院活動を最優先にして自身の生活をすることの誓いの元に身にまとうことすらわからなくなってはいないでしょうか。
その上で最も大切なことは、【自身教人信】と言って「自身が真実の教えに遇わせていただき、その喜びを知ることで周りにも勧めて行くことができる」ものだと思いますよ。
だって、どんなに美味しそうなスイーツでも、実際に自分が食べてみないと、本当に美味しいのか、不味いのかわからないじゃないですか。
美味しかったらやはり周りに勧めるじゃないですか。真実のみ教えも同じだと思う。
誤ったみ教えを他人に勧めるなんて余程の悪意が無ければやらないはずです。大切な人を不安や不幸にするものを勧めるなどあってはならない。それは自分の「得」になるからとか、欲望の成せる技だと思う。
超法寺が皆さまにお伝えしているのは、どんな苦悩に遭っていても必ず立ち上がることのできる阿弥陀如来の【ご本願】、【他力本願】の素晴らしさであります。
仏さまを私に寄せようとすると【地獄】が近づき、私を仏さまにそのままおまかせすると【浄土】へ参らせていただくのです。
よく世間を見てくださいよ。
どれだけの人が幸せに生きているでしょうか。
ニュースを見ても、一生懸命頑張っていたのに自ら命を絶っていかれる方がおられる。
死にたくないのに病に苦しんだり、命を終えていかねばならない姿がたくさんあります。
その上で一番悲しいことは、せっかく人間に生まれたというのに【阿弥陀如来のご本願】を知らずに遇わずに人生を終えていかねばならない人があまりに多いということです。
遇えないからもちろん、亡くなられた人がどこへ行くかがわからず残されていく人はいつまでも悲しみね中で生きていかねばならないということだし、阿弥陀如来が【浄土】に生まれさせたいと願われても、それに背を向け[天国]だなんて思い込んでいるのだから。
だからこそ、この素晴らしい南無阿弥陀仏のみ教えに遇わせていただいたならば、それを周りの人達に教え導くことこそ私たちのすべきことではないかと思うのです。
ハワイマウイ島の山火事で約111人が亡くなられた報道に皆さまはどう思われましたか。
マウイ島には約2割の日本人、日系人が暮らしています。そして浄土真宗のみ教えを聞いて暮らしている方がたくさんおられます。
私が常々お世話になっているご住職は、若い時分にマウイ島で開教使いをされていたそうで、子どもさんはマウイ島でお生まれになったんだと嘆いておられました。
皆つながっているのです。
それなのに、ニュースでは国は外国には積極的に支援をして国内の災害には動きが遅いなどと批判しています。日本人として恥ずかしい思いがしました。
東日本大震災の時にはアメリカ軍やアメリカ国民がどれほど支援してくれたのでしょうか。
その恩をも忘れているような発言を同じ日本人がしている不義理さに怒りすら覚えます。
超法寺ではマウイ島で被災された方々に些少ではありますが、義捐金(義援金)を送りたいと思います。
そして一人でも多くの命が助かってくださることを願ってやみません。南無阿弥陀仏
【仏法を聞くことのできる耳を持とう】
親鸞聖人も、ご和讃に、
「大聖易往(だいしょういおう)とときたまふ 浄土を疑う衆生をば 無眼人(むげんにん)とぞ名付けたる 無耳人とぞのべたまふ」
と、おっしゃっています。
これは、大聖釈尊は浄土は往き易いと説かれる。それはなぜか。すべてのものは、浄土真実の中にある。
それなのに、浄土を疑う人は、真実を見る眼を持たない人であり、何が真実で何が偽りかがわからない、聞き分けることのできる耳を持たない人である、と言われているのです。
皆さまは浄土真宗の門徒ですか?
それは本当ですか?
門徒もの知らずではないですか?
これは、【門徒物忌知らず】ということですよ。
死ねば仏を真に受けて、お念仏を唱えたら救ってもらえるとか、凡夫だから何をしてもいいみたいな親鸞聖人や蓮如上人と違う【異安心】になってはいませんでしょうか。
歎異抄には、
【弥陀の本願を信じ、念仏もうさば仏になる】ときちんと言われていますよ。
浄土真宗の生活信条にも、
【み仏の誓いを信じ、尊いみ名を称えつつ、強く明るく生き抜きます】
とあります。
私のええ加減な信心など阿弥陀さまはまったく当てにされておられません。
阿弥陀さまの先手のおはたらきを素直に受け止めることで自ずとお救いに遇うのであります。
だからこそ親鸞聖人は、【ご恩報謝】、【報恩の念仏】と、おっしゃっているのです。
有難いという喜びがあればこそ、愚痴を申す私の口から阿弥陀さまが声となって現れてくださるのだから。
そもそも、みなさんは南無阿弥陀仏が声となっていますか?
浄土真宗の不道徳は、南無阿弥陀仏を申さないということだと思います。
新しい「領解文」がどうだとか騒ぐ前に私自身の南無阿弥陀仏はきちんと他力本願のはたらきによって申されているかを点検すべきだと思うのです。
先の生活信条にあります通りに、【南無阿弥陀仏を称えながら】が浄土真宗の日暮しなのです。
墓前やお仏壇の前でのみお称えするのは違う気がする。ま、それでもお念仏が全く申されないよりはいいのかも知れませんがね。
感謝、喜び、御礼のお念仏なのだから、「皆さま、ご一緒にお念仏申しましょう」などと号令されてのお念仏には違和感しかありません。
もう一度、親鸞聖人がおススメくだされたお念仏を点検していただきたいです。
それがいち早くできるのは聞法道場たる浄土真宗のお寺へ参る(法話会や法要)ことではないかな。
超法寺は、あらゆる人が阿弥陀さまとお出遇いする中でやすらぎの日々を過ごせるようにお手伝いをさせていただいています。
どうぞお気軽にお越しください。
お待ちしてますよ。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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