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執筆者の写真超法寺の住職

浄土真宗のキイワード[無常]

今日があったごとく明日があると思い、むなしく過ぎ去っていく日々


【無常】という聖語があります。


僧侶のつとめとしてよくお葬式にあい、いろんな別れと出あいます。朝、元気に仕事に出かけた主人が職場で亡くなったとの突然の悲報、それを聞いた家族の驚きと悲しみは見るに忍びないものがあり、世にいう【無常】ということばが身にしみて感じられることがたびたびあります。

しかしふりかえって考えてみると、このことは決して他人ごとでもなく、また遠いさきのことでもありません。私自身の上に遠からずかならずあることなのです。私のいのちは一瞬一瞬に過ぎ去り、決して止まることはないのです。

それを私たちは時間の中に常に止まり、永遠につづいていくようなものがあるかのごとくに思っているのです。

しかし実際にあるのは、いまあるこの一瞬のいのちだけなのです。「未来」とはいまだ現実として来たざらるものであり、「過去」とは二度ととりかえしのつかなくなった思い出です。

ですから未来といっても過去といっても、自分のこころが勝手に描き出した虚像にすぎないものといわぬばなりません。


このことをもっと平たく言いますと、昨日があり、今日があったごとく明日もあると思って、明日があるとおもいながら無為に生活を続けていく、そこには、今日の大切さは知られてきません。してみれば【無常】という聖語は、決して別れが悲しいという悲嘆のことばというだけではなく、今日のいまをかぎりのいのちがいかに大切であるかということを知らせてくださることばでもあるのです。


その【無常】なるものを常と思い、今日をむだに過ごす人の人生は結局その全体が無意味に終わってしまうでしょう。

人生をほんとうに有意義にかけがえのない大切なものと暮らすことは、今日の一日しかなすべきことをなしとげる時はないという、自覚と努力の上に成り立つのです。


では、なすべきこととは何でしょうか。


人生の中でつぎつぎと出てくるでしょう。

しかし仏さまは私たちの人生の究極のなすべきこととして、安らかな人生、そして悟りへの道として本願のお念仏を教えられています。

すれば私たちのなすべきことは、二度とかえり来ることのないかけがえのない今日のいのちの全体をかけて、仏さまの教えの中に自らの道を開いてゆくところに開かれてゆくのではないでしょうか。

『浄土真宗のキイ•ワード』天岸浄圓著より



私は常々、皆さまの悲しみの場に同席をさせていただきながら「仏法」を取り次いできましたが、昨年両親を相次いで見送る中にいかに空想的な他人事のような思いでお話ししていたのかを痛感いたしました。

母を見送る一ヶ月もの間、たびたび母と同じ年齢の方を見送る仏縁に遇わせていただきましたが、やはりいざ実際に母が亡くなる現実を見せつけられて自分が冷静ではいられないのかをまざまざと知らされました。

無常だとか倶会一処とか、言葉だけを味わってきた自分を知らされ、その現実を受け止めた時、どうにもならない感情がたびたび込み上げてくるのです。

来月末にはその母の一周忌がやってきます。

母がいないこの一年、ずっとお念仏を申しながら、どれほど心細く喪失感の真っ只中にある自分がいたことだろうか。

「お母さ〜ん」涙、と何度叫んだだろうか。


【執着】(しゅうじゃく)がいかに強いかを思い知らされます。

確かに母とは約56年間人生を共にしてきました。もちろん父もですが、母とは私が母の身体に宿った時からずっと一緒にありましたから父と比較はできないでしょう。

母は、厳しい人ではありましたが、いつも「肯定」から入って対応してくれた人でした。


皆さまは子どもさんを叱るとき、どのようにされておられますか。

頭ごなしに叱ると子どもって卑屈になりやすいそうですよ。私の父は「否定」から入って頭ごなしに私を最後まで叱り続けました。父を尊敬し、父の愛情をいつも求めていましたが、どうしても萎縮してしまう私がいました。

手紙でのやり取りはいいのに、言葉を交わすと声を荒げて頭ごなしになりました。

ですから、最後まで父とは「恐怖」でしかなく心を交わすことができなかったように思います。残念でした。それが最後の最後に父を逆らってしまったことにつながっているのかも知れませんね。


母は、私を叱るときは、阿弥陀さまの前に座って阿弥陀さまを背にして叱る人でした。

母の後ろに見える阿弥陀さまのお顔がいつも寂しそうな、そんな姿に見えていました。

母も阿弥陀さまの前ですから必要以上に声を荒げることもなく、本当に私が悪いことをしたことに気づいていない時に叱ってくれました。

だからでしょうか、母には卑屈にならずに別れても母が有難いです。

きっと頑なな私のために仏さまが母に姿を変えてお浄土から還相のはたらきとなり来てくださった方だったのでは、と思っています。


そのおかげで私はこの口にいつでもどこでも南無阿弥陀仏が出てくださるようになりました。両親のおかげでしょうか。

もうこの苦悩の人生は私だけのものではなくなりました。いつも阿弥陀さまがご一緒です。


親鸞さまは、「ご和讃」に、

南無阿弥陀仏となうれば、

十方無量の諸仏は、

百重千重囲繞して、

よろこびまもりたまうなり

        「現世利益和讃」


と、おっしゃっておられます。

確かに未だに母が往生した喪失感からは解放されませんが、きっといずれ南無阿弥陀仏をお称えしていく人生の中に乗り越えていくことができるのでしょうね。

そんなことを思いました。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏


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