top of page

無信仰の老後は寂しい

皆さま、こんにちは。

今日も良い天気に恵まれました。

ただ風は相変わらず冷たく一月らしいですね。

石川県能登大震災から二週間が過ぎました。

日々の過ぎる速さは迅速であります。

全く立ち止まることはならないのです。

どんなに辛くても、悲しくても、苦しくても、人間は生きていかねばなりません。

そのような中にあって災害にも遭い、事故にも遭遇します。もちろん病も突然訪れます。

そして当たり前のようにいた家族も縁が尽きれば居なくなります。


親も、あの口煩い親もいざ見送ってみると何とも寂しいことです。どんなに後悔しても間に合わないのです。だからこそ、慌ただしい人生を生きていく中、私の知恵だけに頼って生きていくには辛すぎるのです。

人智を超えた真理に遇うことが望まれます。

若い時や元気な時には気にならなかった私の無常。「老い」、「病」、「死」です。

しかし、身近な存在を見送ったりしたら途端に不安になるものです。

これは何人であっても決して逃れることはできません。どんなに嫌だと言っても、待ってくれと願ってもどうにもならないのです。

これを仏教では【諸行無常】と言います。


『歎異抄』には、

名残惜しく思えども、娑婆の縁尽きて力なくして終わるときに、かの土には参るべきなり。


と言われています。

さて皆さまはこの言葉の意味がおわかりでしょうか。これが分からない方は必ず人生の終わりに孤独感に苦しんでいくことになります。

これば人間の知恵で理解することは出来ない世界だからです。

だから信仰が必要なのです。それも人間の欲を超越した真実の信仰が必要であります。

まやかしの信仰は逆に私自身を苦しめることになります。


人間として幸福を得たいと望まないものはない。良く生きていきたいと願い求めないものもありません。この望みが本当に満足するためには信仰がどうしても必要なのです。


その問いについて、自分の力を信じ、間違いないと思い込んでいる人は、人間が真面目に働いて、無理な日暮しをしなければそこに幸せな生活が営まれるのではないか、と言います。

果たしてそうでしょうか。

先にも述べたようにどんな順調な人生を歩もうが、私の縁によって「病」、「死」は必ず訪れます。待ったなしであります。


この度の石川県能登大震災でも、真面目に働いて頑張っておられた方はたくさんいたはずです。ではどうなりましたか?しあわせになれたのでしょうか。連れ合いを亡くしたり、我が子に死なれたり、自分自身が苦労して建てたマイホームを失い、避難所生活もできずに車中泊を余儀なくされている方、持病のための薬すら手に入らず苦しんでいる方がたくさんおられます。食事は一日1回、風呂にはまだ入ることすら叶わない現実があるじゃないですか。

これはすべて「縁」のなせる世界です。


仏教を開かれたお釈迦さまの教えでは、人生は無常、常がない、従ってまた一切皆苦と仰っておられます。これが真理であります。

私の都合良くは決して生きられないのです。だから、お釈迦さまは【人生は苦なり】と、仰っているのです。

私たちはどんなにしあわせを願っても、この娑婆世界、人間世界に生きている以上、「苦」からは逃れることはできないのです。


これは祈願をしようと、厄除けをしようが私の願いなど叶えてくれるものはありません。

無いのにも関わらず人間は二十一世紀の今も、相変わらず神仏にお願いしています。

神仏の真理を無視して。


仏教に遇わせていただくと、私が思い込んでいたことは全くの思い違いだと気づかされます。

私が生きているこの世界は「苦」の世界と知らされて初めて安らぎを得ることができるのです。

ミュージシャンのさだまさしさんは、お釈迦さまの【人生は苦なり】を知り安堵したそうです。「あ〜、苦しくっていいんだ」と。

これをいただけると生きることが楽になります。


人間としての真の幸福とは、人生の意義を見出すことです。生きがいを感じることです。

生きていて良かったなぁ、私が私で良かったなぁと思えるようになることです。


「現世安穏」慈円慈鎮和尚

後の世のうれしかるべき道なれば、

今日行く空ものどけかりける。


後の世とは、私たちが死んでいかねばならない未来のことです。


「うれしかるべき」浄土へ参らせていただける。一日一日がお浄土へ近づかせていただく日暮しだ。仏教の教えに遇うとは、「苦」は決して無くすことはできないけれども、その「苦」を抱えて生きるしかない私のために、阿弥陀如来という仏さまが南無阿弥陀仏を私に届けてくださり、受け止めていくことで間違いない「現世安穏」の道を歩ませていただける大きなはたらきをくださるというものであります。


このように人生の幸福は、ただ物質的に満ちても、お金が満ちようが、健康で若くて何不自由のない日暮しをしていても、必ず離さねばならなくなります。逆にどんなに貧しくても、病気で不自由な生活をしていても、南無阿弥陀仏を我が身に仰ぎながら生きていく私となれば、真実の幸福には恵まれるのであります。


皆さまも、ぜひ【現世安穏】な日暮しを南無阿弥陀仏を称える身になり、安らぎの人生を歩ませていただきましょう。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

Comments


bottom of page