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漏らさぬためのお念仏

更新日:2023年11月3日

皆さま、こんばんは。朝書いて消えてしまったブログを再度書きます。

もちろん内容は同じではありませんがご容赦ください。

昨日の発送作業は3名にお手伝いいただいて無事に終えました。

来年のカレンダーを送りましたので、どうぞお使いくださいませ。

超法寺の御門徒登録されたご家族で個別にカレンダーをご所望くださる方は送付先をお知らせくだされば送らせていただきます。

御門徒以外の方には後日、西本願寺の法語カレンダーを送付いたしますので今しばらくお待ちくださいませ。超法寺ではもっと浄土真宗のみ教えが身近になるように願っております。

さて、今日は一日身体にお酒が残ってしまいうまく過ごせていませんです。

滅多にお酒を飲まない住職です。飲めないのではなく飲まないのです。

つまり機会がないのです。飲み友達がいません。

ま、ある意味健康的なんでしょうね。

そうそう、超法寺(いるま布教所)は七年目を迎えました。

よくぞここまで維持してこれたと驚いています。

土壇場になる度にさまざまな方が支えてくださいました。

右も左もわからない馬、鹿の私ですがギリギリで徳俵に足を乗せながら堪えたコロナ禍でした。夢への途中で両親が往生し一体どうすればいいのかすらわからない。

でも、両親が教えてくれた不可思議のはたらきが私にもございました。

これからは非法人寺院、宗教法人化へ向けてより一層の充実した活動を心がけていきます。もっと多くの方々にお寺へ足を運んでいただけるようにしていきます。

住職は頑張る。


昨夜は二名の御門徒と一緒に報恩講後の忘年懇親会の会場を無事に決めてきました。

武蔵藤沢駅近くですので皆様も参加しやすいと思います。ぜひ当日、超法寺へお参るくださりお聴聞をして身心をスッキリさせてご講師もご臨席予定ですので賑やかなひと時をご一緒したいです。もう既にご参加希望の方は住職までご一報ください。

昨日は嬉しいお酒だったのでしょうか。

住職は超法寺の未来を共に語れる方と腹を割って大いに語れたので(二次会はそうならなかったけど)楽しいお酒でしたよ。ちなみに住職はずっと焼酎をいただきました。


来年からはもっとさまざまなイベントや行事を始めたいですね。

4月には築地本願寺で慶讃法要も勤まりますので、超法寺として参拝を募ってご一緒にお参りしたいと思っています。

それに伴って、稲田の西念寺さま(親鸞聖人ご旧跡)へ参拝してみたいとも思っています。ゴルフやボーリング、カラオケなど皆さまとの懇親の場を設けてより信頼関係を構築できたら嬉しいです。

もっと超法寺を皆さまの身近にしていただきたいです。

未熟な住職をお育ていただきたいとも思っております。


前置きが長くなりましたが、

皆さまはご家族がございますか。住職のように一人の方もおられるでしょうか。

「ひとりぼっち」って好きですか、嫌いですか。

人はないものねだりですから、有れば無い人を羨み、無い人は有る人を羨むものです。健康で無い人は健康な人を羨み、お金の無い人はお金持ちを羨むものです。

しかしながら人間とは、持っていても安心できない悲しいものなのです。

ですから住職も奥さん欲しいって思っていますが、最近はなるべくないものねだりをせずに、「自分にはこれでちょうどいい」と思うようにしています。

そうすると意外や意外、そんなに不足に思わなくなるものです。

幾ら恋しく思ってもないものはないのですから。


そこで仏教では「愛」についてどのように言われるか。

実は仏教ではあまり良い意味で「愛」は使われていません。

「愛欲」、『大無量寿経』には、「人は皆世間の中にあって独生独死独去独来(どくしょうどくしどこどくらい)」と言われています。

愛欲は「独生独死独去独来」である。

人は一人では生きられません。一人で生きていけないから人間って言うのです。

だから『大無量寿経』にも人はみな世間の中にあるとあります。

人間は、人の間でしか生きられないのです。

でも、皆さんも私も一人で生まれてきたのです。

だから友達を作って、知り合いを作って、一緒に働き、一緒に暮らす人をこしらえていくのです。

その中で、自分の立ち位置や自分の存在というものを作り上げていくのです。

人の間の中で人間になろうとするのです。

私は柴犬に育てられたらきっと自分のことを犬と思っていたでしょう。

人を人間にするのは人なのです。

私を念仏者にしたのはお母さんです。もちろんおじいちゃんでもあります。

また私を住職にしたのは超法寺へお参りしてくださる皆さまです。

超法寺の良し悪しは、私の言動と関わっていてくださる皆さまのお姿ではないでしょうか。

また「渇愛」というものもありますね。

渇愛とは、とにかく人間は自分に関わるものに「執着」(しゅうちゃく)する。

夫は妻を、親は子供を。先の愛欲でも書きましたが、物にも全てです。

お金は欲しい。お金は使いたくない。地位や名誉も失いたくない。

身体的、精神的な「渇き、欲望、渇望、貧欲(とんよく)」、「愛」とも訳されます。


人間はどこまで行ってもこの「愛」に固辞し執着していく中でいつも苦を抱えて生きているものですから「不満、不足」からはなれられないのです。

だから私たちはいつまでたっても「しあわせ」になれずにいるのですね。

これを仏教では「凡夫」とも言うのです。

「凡夫」のままでは命を終えても「往生」はできません。

もちろん天国にも極楽にも行くことは叶いません。

でも、人は「死ねば仏」、皆死ねば仏になるものだと信じて生きています。

自分で念ずることができるなら良いですが、そうでなければお念仏を申せと言われますが、自分は天国に行くんだと思っている人には、お念仏など嬉しいものではないのでしょう。だから自分ではない故人のために称えるとくらいにしか捉えていないのかもしれません。


このような私の生き方を仏さまはご覧になっていて、「どうにかしてあの者たちに真実を伝えて真実の世界に生まれさせたい」という先手の願い、先手の救いが仕上げられいたのでしょう。

それなのに自分は天国に行くんだと思っている私がいるから、当然「極重悪人」などと思えない私がいる。だからこっちに「信じろ」などと仏さまは悠長に待ってなどいられないのです。どんなに撥ねつけられ、どんなに背かれようとも、どんなに疑われようとも仏さまは働き続けておられるのです。

その先手のおはたらきが、「善人賢者」と自らを思い仏に背を向けていても、その仏の方から私の心身に南無阿弥陀仏となって飛び込んでいてくださり、私の悪口、愚痴の声に南無阿弥陀仏と声となってあらわれていてくださるのです。

ですから、どんなにお念仏を称えても嬉しくない、有り難くない私であっても仏さまは少しずつ私の心身にしみていってくださるのです。

阿弥陀という仏さまは、「全てのいのちを救いたい!」という願いによってできあがっているのですから。


南無阿弥陀仏とは、そういう意味なのです。

ですから無理にお念仏を称えて喜ばなくてもいいのです。

阿弥陀さまは、お念仏を称えなきゃいけないから存在ではないのだから。

お念仏は私の声を使って阿弥陀さまが私のために称えてくださるのです。


法然聖人は、「お念仏は人に聞かせるものじゃないよ。自分の耳に聞こえるほどの声で称えてみなさい。そして、あなたのことはもう阿弥陀が救っているから安心しなさいよ。」と言われたそうです。


素晴らしい世界観じゃないですか。

まるで親が先手を打って、頑固でわがままで自分よがりに生きようとする我が子に全てを先手を打ってあれこれ用意をする、そんな姿と一緒じゃないでしょうか。

皆同じとは言いませんが、少なくとも浄土真宗のみ教えを聞くことを実践してくれた我が親は、人生をかけて私に伝えてくださったと私は理解しています。


有難いは、有ることが難しいと書きます。

人智を超えた不可思議の智慧が南無阿弥陀仏の声となっていつもご一緒くださいます。そう思えたら、どれだけ豊かな私の人生となることでしょうね。

私の嫌いなあの人も、阿弥陀さまの願いがはたらいておられます。

「あなたも仏さまになる人ですよ。一緒にお念仏申しましょう。」そう言ってあげたいですね。

でも実際にそう声をかけたらどう思うでしょうね。

もしかしたら怪しい新興宗教かと逆効果になっちゃうのでしょうかね。

どんなに素晴らしい神仏の教えでも、こちら(人間の側)においたら途端にまやかしとなることを忘れてはないません。

もちろんお念仏も同じです。免罪符のように南無阿弥陀仏を使ったら自力ですからね。おまかせするところから始めたいですね。


なんまんだぶつ。


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