漂流人生を脱却しよう
【帰るべき故郷、待たれる世界がある】
「故郷への旅行をなぜ帰省というのだろう」
出身地へ戻るので「帰る」というのだろう。
しかし両親が生きてるときは、「実家へ帰る」というのに、両親が亡くなると「行く」という言い方になる。
つまり「帰る」といえるのは、待っていてくれる人があるからこそなんだ、と言われたことがあります。
私たちは毎日、仕事や学校を終えて家に帰る、帰る家がある。待っていてくれる家族がいる。
実は本当はとても有り難いことなのですね。
家庭という基盤、拠点があってこそ、人は安心して生きることができる。
ところが近頃の少年犯罪や少女たちの脱線ぶりを見聞するにつけ、帰るべき家族が溶解し、若者たちが漂流しつつあると思う。
今や、子どもたちだけじゃなく大人ですらネットカフェで寝泊まりするような世の中が当たり前になってしまっている。
親も数日、子どもが家に帰らなくても別に驚きもしなくなっているから、そもそも家庭って家族って何だろうと思ったりします。
今や日本では自殺者が何年も続けて30000人以上、特に中高年の自殺者が60%を占めている。
そんな悲惨な惨状も根は一つ。
【人生という旅を終えて帰るべきいのちの故郷がある。待っていてくれるお方がいらっしゃる。今は亡き両親も祖父母も皆、待っていてくれる】
この感覚を広く共有しなければ日本人の漂流は益々増えていくだろう。
人間では【思うようにならない苦しみは克服できません】
こんなはずはない。
思うようにならないので辛く、生きていく希望を見失ってしまいがち。他人が気になってしかたがない。どうしても友達や仲間と比べてしまう。
そして人間は無いものねだりです。
思うようにならない。
それは人間であれば、いや迷いの命である以上皆一緒であります。
それぞれ【価値観というモノサシが違います】
それなのに皆、自分のモノサシをパートナーや子ども、家族、仲間に当てはめようとします。
それはそもそも無理であります。
無理なのに、無理矢理自分のモノサシで相手を測り、当てはまらないと責めてしまう。
違うとそこに【イジメ】【仲間はずれ】が生じてしまうのです。
親子だってモノサシは違うのだから。
しかしながら親は我が子については受容しようと努めてくださるのでしょう。
それすらできない親であれば子どもたちは行き場を見失い漂流してしまうのだと思う。
やはり人間は仏法を聞いて生きていくしか無いと私は考えます。
我が両親を見送ってしまったからこそ気づかされたことがありました。
いてくれているうちにどうして気づけなかったんだろうね。
やはり【欲】【執着】がそうさせているのでしょう。
死ぬまで【煩悩】から離れられない私を仏教では【凡夫】と言います。
凡夫の私には煩悩を捨てて【さとり】を得る生き方はできません。
できない私をそのまま抱きとめ、そのまま救うと気づきを薦めていてくださる仏さまの願いを聞く私になることが、【漂流人生】から脱却していく近道ではないかと考えます。
私も今日も【煩悩】に振り回されていますが、南無阿弥陀仏のおかげで何とか漂流せずに済んでいます。是非、少しでも漂流から脱却したいあなたの手助けができればと生意気にもブログに書いています。是非読んで気に留めてくれたら尋ねてほしい。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、ナンマンダブツ