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涙が出ました

皆さま、こんにちは。

超法寺は今日が仕事始めでした。

今年の一件目は一日葬です。

直接依頼をいただきました。リピートの方で、

ずっとお参りを頼んでくださった方でした。

ご生前、いつも優しい言葉と温かな笑顔が素敵なお父様が往生されました。


私を大切に思ってくださいました。

まるで父のような方でありました。

私は実父とは、コミュニケーションが上手く取れませんでしたが、きっと私が思い描いていた親子像はこのようなものではなかったのでしょうか。よくぞ頑張って生きてくださいました。

子どもさんのためにお墓も用意して、自分がやれることをすべて済ませ、私に後を託してくださったのですね。

大丈夫です。責任もってお世話をさせていただき、必ずお浄土での再会を果たせるよう務めてまいります。


お父様がしてくだされたご厚情は決して忘れません。私の人生の学びとさせていただきます。

南無阿弥陀仏の声となりお還りくださいますよね。ナンマンダブツでお遇いさせていただきます。お父様の遺影は私のよく知っているお父様のお顔でしたよ。

まだお父様の声が耳に残っていますよ。

息子さんはお父様の声とそっくりでした。

電話での声は、てっきりお父様からかと誤解していたくらいだから。


あの霊園で私を見送ってくださいましたお姿、最後になるとはね。お父様の精一杯だったんだなぁと感じていたけど、私もあのような優しい人になりたいですよ。なれるかな。

見守っていてくださいね。

また必ず遇いましょう。またね。


親は子どもがしあわせになってくれなければ、親がしあわせになれない。

子どもの苦しみが親の苦しみ、子どもの喜びが親の喜び。

子どもにわかろうがわかるまいが、親とはそういうもの、親の胸の中は子どものことでいっぱいなのだそうです。

今日、私が実父でないお父様の葬儀で涙したのは、きっと【親心】を知らされたのですね。

本当に涙が出るほど有難いよ。


私は実父の葬儀には出られなかった。

熱海方面で一日葬のお仕事でした。

だから、今日の葬儀は、「あ〜、お父さん」って思いながらでありました。


「衆生、仏にならずば、われも正覚(しょうがく)ならじ」


あなたが迷いの境界にある限り、私一人、さとりの世界にじっとしていることができません。

凡夫(死ぬまで煩悩から逃れられない者)の迷いを自己の迷いと見て、凡夫の苦悩を自己の苦悩と見る仏さま。


「弥陀大悲の胸のうち、かの常没(じょうもつ)の衆生みちたるゆえに」


凡夫の私たちにわかろうがわかるまいが、仏さまとはそういうものです。

すべての者に、その仏さまの大慈悲心が注がれています。その仏心に目覚め、仏さまのお慈悲を喜ぶ人が念仏の人なのです。


「月影のいたらぬ里はなけれども、ながむる人の心にぞすむ。」 (法然聖人)


意味/月の光の照らさぬ里はないけれども、目を背むけたり、締め切った部屋にいる人には、月の美しさを楽しむことはできません。


南無阿弥陀仏がこの身についたのがお念仏。

いつも耳に聞き、口に称えるのは、ただナンマンダブツ、南無阿弥陀仏ですが、その中に阿弥陀如来の全てを味わっているのですね。


亡きお母さんが、亡きお父さんが、私の知らず知らずのうちに、阿弥陀如来の大慈悲心を何も知らない、わからない私に届けていてくださったのですね。それが親の我が子への一番のプレゼントなのですから。

悲しい時、寂しい時、辛い時、苦しい時、そして嬉しい時に、是非、口に南無阿弥陀仏と称えてください。

きっと、お父様も、お母様も、皆さまを喜んで笑顔でいてくださいますよ。


「光」となって優しく照らしていてくださいますよ。


声に姿はなけれども、声のまんまが仏なり。

仏は声のお六字と、姿をかえてわれに来る。

(高松悟峰師)


声の仏になられたのですね。

有り難きしあわせ。

ナンマンダブツ、南無阿弥陀仏

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