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執筆者の写真超法寺の住職

浄土真宗の教え

 浄土真宗の教えといいますと、むずかしい理屈をつらねることもできますけれども、日常生活の中で味わってゆくということでは、最も、そしてだれでもが、受け取りやすい教えだと、思います。


家族を持っている、仕事にはげんでいる、そういう中で、生活に追われている人びと、あるいは病の床にある人びとが、心の本当の意味の依りどころをいただいて生きる教えだといえます。


困ったからこちらからお願いするとか、他のものを頼ってそれを自分の都合で利用してゆくという教えではなくて、人間の自分中心の姿、自分中心のあり方を超えて、阿弥陀さまの真実のお心をいただいて生きてゆくことであります。


ですからそれは、私たちの持っている煩悩にまみれた力に頼るのではないという意味で、他力という言葉が使われることもありますけれども、決してそれは、他人に頼ってゆくというたよりない人生ではなくて、私の持っている力を、本当に精一杯発揮させていただく教えだといえましょう。


それは全ての生命あるものを生かし救ってくださる阿弥陀さまの真実のお心、南無阿弥陀仏をいただいて生きてゆく人生であります。


ですから、私が努力をして立派な人間になって救われてゆくのではなくて、わが心の中をふり返ってみると、自分中心のことしか考えることができない、時には、とんでもない恐ろしいことも浮かんでくる私の心であって、そういうありのままの姿をごまかさず、認めながら、阿弥陀さまのお心の中に生かされてゆくのです。


ご恩報謝の生活と、昔からいわれてまいりました。それは、阿弥陀さまのお心に応え、報いていく、自分の力を精一杯つくしてゆく道でありまして、この世に生命を与えられたものすべてが、阿弥陀さまのお心の中に包まれているということを思いますときに、お互いに手をとりあって、一歩一歩歩んでゆく広い道がひらかれていることに気づかされます。


人類の将来を考えてみましても、人間の欲望の上に立って化学技術がどんどん進んでゆく、また、人間の力、政治の力によって人びとがより強く支配されていくようであります。

そうしたものに流されてゆくのではなくて、この世に与えられた生命の本当の尊さを実現してゆくことが、私たちのつとめではないでしょうか。


【大谷光真】当時、御門主

《一語法話》第38号より

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