皆さま、こんばんは。いやちょっとお疲れモードで一休みしました。
皆さまはいかがお過ごしですか。
初詣は済まされましたか。神さまでけではなく仏さまにもですよ。
そして何を祈願されましたか?
私は浄土真宗だから祈願などしませんと怒られそうですが、浄土真宗の
み教えに遇えたから「お浄土」へ行くことができるという感謝でしょうか。
でも、こっちの持ってきたらダメですよ、自力になります。
「自然」の世界ですから、期待とかお願いは不要なのです。
では、親鸞聖人はここをどのようにお示しくださっているか、ご紹介します。
皆さまがご存知の親鸞聖人の著書『教行信証』は、どのように仏の教えを受けとめておられたか、そしてそれをどのように伝え残そうとされていたかを知ることができる大切な書物です。
その中で七高僧のお一人、龍樹菩薩さまの書物の中から次のような「たとえ」が引いてあります。それは仏道を歩み始めた最初の喜び(歓喜)がどれほどのものかを表そうとするものです。
「仏道を歩み始めた最初の喜びとは、髪の毛を百等分して、その一本で大海の水をニ、三滴ずつ汲み取っていく作業が、すでにほとんど終わって、あとわずか二、三滴しか残っていないところまで進んだ時、lその汲み終わった大海の水ほど大きなものである」
例えとしてはわかりやすいものです。
しかし親鸞聖人は、
「仏道を歩み始めた最初の喜びとは、髪の毛を百等分して、その一本で大海の水をニ、三滴ずつ汲み取っていく作業が、ほんのニ、三滴終わって、あと大海の水がほとんど残っている、そのニ、三滴ほどの心が大いに喜ぶのである」
このように読み方を変えておられるのです。
お気づきですか?
実は内容が逆になっているのです。
龍樹菩薩さまのたとえは、煩悩がもうほとんど無くなりかけている
↓
親鸞聖人は、ニ、三滴ほどがやっと無くなっただけで、苦しみはほとんど残っている。
ではなぜ親鸞聖人はこのような読み方にされたのでしょうか。
このすぐ後に、この「たとえ」の意味の解説が続いています。
「まだ大海の水ほどの煩悩の苦しみが残っているとしても、それは無始生死(むししょうじ)の苦しみに比べれば、ほんのニ、三滴ほどしかすぎない」
というような意味のことが書かれています。
「無始生死の苦」とは、自分がどこから来てどこへいくのかわからない生のあり方、進むべき方向がわからないという「迷い」を人間の苦の本質として捉えている言葉です。迷いの苦しみに比べれば、煩悩がたくさん残っていることなど、ものの数ではないと言うことです。
浄土真宗における喜びとは、浄土に着いてしまうことによって得られるのではなく、浄土に往生するという方向が定まること、その歩みが始まるところにこそあるということを説き示されたのではないでしょうか。
お浄土へ行くのがゴールじゃなくて、お浄土への人生が始まると言うことを知ることが大切ではないかと思うのです。つまり「今」です。
さて明日は千葉市までお参りに行きます。
連日の往復200キロはハードですが、お待ちくださいますので安全運転でお参りします。皆さまもどうぞ良い週末をお過ごしください。南無阿弥陀仏
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