top of page

浄土真宗の信心

皆さま、こんばんは。

今日もいい天気でしたね。

ただ暑さもさすがに夏の装いではありません。

それでも冬服がまだしっくりと来ないのも事実ですが。

そして今日は11月9日、119番の日。

秋の全国火災予防運動の時期です。

これは防火意識の喚起とともに、適正かつ迅速・的確な「119番」

通報を高めてもらうことが目的なんだそうです。

ではここで火災報知の電話サービスが119番である理由、ご存知ですか?


1926(大正15年)に導入された時の電話番号は「112番」でした。

当時はダイヤル式の黒電話(知っていますか)でした。

一刻を争う緊急のため、ダイヤルを回す時間の短い番号として指定されました。

しかし意外にかけ間違いが多かったのです。

そこで翌年の1927年(昭和2年)にかけ間違い防止と最後にダイヤルを回す時間が長い「9」を回すことで落ち着いて話ができるためという理由で現在の「119」になったのです。

警察の緊急通報も同様の理由とされています。

雑学です。

※昨今問題となってる、救急車をタクシー代わりに呼ぶ迷惑行為ですが、絶対止めてください。このような自分勝手な行為をしていると、救急車要請が有料化される恐れがあり皆が困ることにもなりかねません。ですから公共のものとの区別をつけることが社会人としてのマナーだと思います。


さて今日は、日頃から皆さまが気になされています「浄土真宗の他力本願(信心)」についてご紹介します。

皆さまのご先祖代々、浄土真宗だと言われる方は大変多いと思われますが、それなのにもかかわらず浄土真宗のみ教えについて無知な方も多いのが現状ではないかと思われます。大丈夫ですか?

結構知っておられるのが、「死ねば仏」という言葉のように思いますが実はこれは正しくはありません。間違ってもいないのですが、『歎異抄』に「弥陀の本願を信じ、念仏もうさば仏になる」とあります。ここからきた言葉です。

自分の都合の良い解釈で勝手に作り上げた言葉と言われています。


○弥陀の本願を信じ

○念仏もうさば


が大切なのです。

浄土真宗でお念仏を口に申さないのは不道徳です。

でも、お念仏を称えたから救われるのではありません。

ここをよく受け止めていくことが肝要です。


南無阿弥陀仏の仏さまを我が身にいただく信心は、口に称えて相続(いただく)します。だから信心の人は、心がけてお念仏を申します。

お念仏を称えて生きる人生は、


「ナンマンダブツの船に乗り、ナンマンダブツの帆をあげて、ナンマンダブツの風を受けて、ナンマンダブツの親さまの、お浄土へ行く船の上」


の人生なのです。

○浄土真宗の信心の中身は、南無阿弥陀仏の仏さまです。

ですから信心が往生成仏の因になるのです。


「絶対信じる」とか「間違いないと信じる」、そのあなたの思いでは続きません。

心穏やかで何事もない時分ならまだしも、緊急の場合には何の役にも立ちません。

やってみなさいよ。自分(自力)など全く当てになどなりませんから。

自力で申すお念仏は皆それぞれ違います。


○浄土真宗の信心は、【南無阿弥陀仏の仏さまを我が身にいただく信心】ですから、親鸞聖人の信心も、蓮如上人の信心も、法然聖人の信心も、そしてもちろん私の信心も同じです。ですから親鸞聖人は、「弟子一人もとらじ」とおっしゃっておられるのですね。


これを間違って受け取る(自力の信心)人に対して、法然聖人は、

「信心の違うのは自力の信心であって、他力の信心は、善悪の凡夫(死ぬまで煩悩から離れられない人)、共に仏から賜る信心なれば、この法然の信心も、親鸞の信心も、まったく同じです」とおっしゃっておられるのです。

自分勝手に信心をして生きる姿はまるで、親なんかいらない自分で生きる、そんな姿のように思えてなりません。親の我が子を思う願いがあればこそ、子どもは安心して生きていけるのではないでしょうか。


南無阿弥陀仏、ナンマンダブツと称える私には常に仏のお育てを我が身にいただきながらの人生であります。一人じゃないぞ、一緒だぞ。


「み仏を 呼ぶ我が声は み仏の われを呼びます み声なりけり」


「われ称え われ聞くなれど ナモアミダ つれて往くぞの 親の呼び声」


静かに呼んで味わってくださいませ。

これこそが浄土真宗の信心であります。

何度も言いますが、口にいただけないお念仏は皆自力です。

子は親の名をいつでもどこでも呼ぶのですから。

親はその声を聞いたならば黙っていることなどあるはずないです。

子どもの呼ぶ声に反応しないのは親ではありません。

子どもを産んだから親になれるのではありません。

子どもの声を聞いて受け止めたから親にならせていただけたのです。

子どもも同じです。親が願いをかけて私に名前をつけてくださり、その願いのまま

呼び続けてくれた、その親心が届いたからこそ私たちは親を知れたのです。


「釈迦弥陀は 慈悲の父母 種々に善巧方便し 我らが無上の信心を 発起せしめ

たまひけり」(高僧和讃 善導讃)


「異本左訓」

釈迦は父なり、弥陀は母なりとたとえたまへり


無上の信心とは、阿弥陀如来のこの上もない智慧を賜った信心。

他力の信心のこと。


発起とは、昔よりありしことを起こすを「発」という。

今初めて起こすを「起」という。


十方世界に声となって届けられてあるのが阿弥陀如来の他力の信心であります。

テレビや携帯はどうして観れたり通話ができるかは、目には見えない電波が届いたからです。目に見えないからと言ってないのではありません。

目には見えないけど誰にでも届けられているのです。

それなのにどうして私はナンマンダブツがいただけないのでしょうか。

受信機がきのうしていないからか、電源が入っていないからじゃないでしょうか。

それに気づくのがお聴聞することではないかと私は受け止めています。


ナンマンダブツ

閲覧数:11回

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page