浄土真宗のご法義
- 超法寺の住職
- 1月29日
- 読了時間: 3分
皆さま、こんばんは。
今日は朝から千葉市まで行ってきました。
連日遠方へ足を運び、なかなかハードでありました。懐かしい人との出会いもあり、またさまざまな人間模様がありました。
生きている限り、私たちは常に【無常】の中にあり続けるのであります。
特に【老い】は必ずと言って「別れ」を知らされます。明日は我が身かもしれないことも忘れてはならないとも思うのであります。
さて浄土真宗のご法義は何か。
ちまたには「お念仏するとか、仏法聴聞を重ねる」などと多くの方がおっしゃっています。しかし現実に、常に南無阿弥陀仏を称えながら、生活の中に欠かさず仏法聴聞も欠かさずに過ごしておられるのでしょうか。
確かに親鸞聖人も蓮如上人もこれらをススメてはおられますが、「称えねばならない」とか、「仏法聴聞を欠かさず」ことを義務のようにはおっしゃっておられません。
むしろ、先に阿弥陀さまの成仏のおはたらきがあり、今ここに南無阿弥陀仏の声となり私たちに届けられてあることを知りなさい、自覚しなさいと言うことではなかったのでしょうか。
他力本願とは私の都合など当てにはされてはおられたいのです。だから、「称えねばならない」とか、「仏法聴聞しなくては」ではないのです。それはそれで、もちろんされた方がいいのは間違いないけれど、私の努力の中ではないはずです。だって他力なんだもの。
全ては阿弥陀さまの一人ばたらきであるはず。
その上で蓮如上人は、「ご恩報謝」と、はっきりと言われています。
強要したり、周りから促されて念仏するのではないのです。どうも忖度が入り「お礼しましょう」となってはいないのか。
お礼ってそういうものではないと私は受け止めています。
だって私が救うんじゃないのよね。
私だって阿弥陀さまが他力の大慈悲心のお働きにより「自業苦」【地獄】から救われるように目覚めを促されているのです。
ただしかしながら、なかなかしぶとい私たちは、なかなか「おまかせ」な私にはなれないのであります。都合が常に「私の都合」となる危なかしいのであります。
匙加減はなかなか難しいのではないかな。
だからその気持ちを大切にしていきたいものなのです。
あらゆる仏事(葬儀、年回法事、お寺参り等)を故人による諸仏のおはたらきと受け止めていきます。
少し偏見と偏った物の見方は、こちらに仏さまを置いていく中には気づくことでしょう。
そのためにこそ仏法聴聞を重ねることをススメておられるのではないでしょうか。
そんなことを考えながらの一日でありました。皆さまもたまには自分が信仰する浄土真宗について考える時間を持ってみませんか。
さすがに睡魔に襲われてきました。
おやすみなさいませ。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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