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浄土真宗って楽でいい

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、こんばんは。

今日は不安定なお天気で晴れたり曇ったり、雨がパラついたりしました。

ただ気温は高めで梅雨に向けてこんな日が続きそうですね。

体調管理してくださいね。五月病もありましょうが、疲れたらお酒などに頼らずに爆睡しちゃいましょう。寝るのが一番です。


さて今日は午前中に築地本願寺の伝道企画部、マーケティング戦略企画部の方々(お二人)が来院されました。

お一人は私と同学年でフレンドリーな雰囲気で超法寺のお寺に向けての私なりのビジョンをお話しさせていただきました。

今の超法寺は間取り的に控室がないためにご講師や来客者の休んでいただく場所がないためにご迷惑をおかけしているような状況で大変申し訳なく思っています。


ただ昨今のコロナ禍(まだ終息してはいないが)で約3年収入的に大変厳しいこともあり物件購入や別場所で活動するなどの選択肢がなくここまで来ました。

今後の寺院活動を考えるならばやはり、場所は最高なのですが、私住職は(56歳)高齢のためローンを組める枠内で借り入れをして何とか、この入間市に浄土真宗本願寺派のお寺を設立(先ずは非法人寺院)したいという夢があります。


お参り下さる方々にも寛いでいただける空間を出来る限りでご提供したいなぁと思っています。超法寺に仏縁を結んでくださる方々は、不足も言わずに協力的に応対してくださいます。

未熟な私(住職)を叱咤激励してくださいます。いつも有難うございます。そしてこれからもメンバーとして支えてくださいね。(願望)


さて今日お参りした八王子上川霊園でのお話しです。とある老夫婦がお墓じまいをされるとのことで遷座法要[ご希望は先祖供養とおっしゃっていた]をお勤めしました。

奥様が「浄土真宗は楽でいいですよね。」と、おっしゃっていました。

実は本当にこのようにおっしゃられる方って多いんですよね。(皆さまもそう思いますか?)


ご存知のように、浄土真宗のみ教えは私の力に頼ることなく、阿弥陀如来のご本願におまかせして(他力本願)、阿弥陀如来のおはたらき一つ(南無阿弥陀仏)で阿弥陀如来のお救いに身をまかせていく教えであります。


一見、私たちのようにこの愚痴の口に南無阿弥陀仏がいただけて、南無阿弥陀仏〜と声になっている人には実に楽なのかもしれないけど、いやはや世間で、我が家は浄土真宗というのに口が南無阿弥陀仏と声となっておられる方は圧倒的に少ないのが現実であります。


(皆さまは南無阿弥陀仏と声に出ますか?)


これは例えるならば、皆さまが普段からお父さん(パパ)、お母さん(ママ)と声にしているかのような感じだと思います。

なぜ私たちが親をお父さん(パパ)、お母さん(ママ)と頭で考えなくても呼べるのでしょうね。それば私たちが赤ちゃんの時に言葉も知らないうちに、親の方が先に、「私がお母さんだよ、生まれてきてありがとう」と、何より先にお母さん(ママ)が名乗りをあげてくださっていたからですよ。

頼みもしないのに。

親だからこそ、我が子から頼まれる前から「安心してまかせなさいね、必ずあなたを幸せにするからね」と、お母さん(ママ)は我が子のしあわせを願いながら呼んでくださいます。

お父さん(パパ)も、きっと「生まれてきてありがとう」って言ったはずです。

おっかなびっくりしながら我が子をこの手に抱いたときに親になれた感動を実感するんじゃないでしょうか。

「私は我が子の縁には会えていません」が、姪を抱かせてもらったときにそう思いましたからね。


伯父さんとして恥ずかしくない大人になろうと。だから実家を飛び出したところもありますからね。不足の人生ではなくて「報恩」の生活がしたかった。

生活は貧しくとも、身心は天晴れでいたかった。(実は最初、天晴寺って名前にしようと考えたのですが、もうありましたので断念した経緯があります。笑えるでしょ。えっ、超法寺で良かった?)


この世で一つの希有なお寺を目指しているのが私が実践している超法寺なのです。


ちょっと脱線しちゃいましたが、このように私たちは親にすべてを委ね、お母さんに抱かれて安心の中で育ってきたのです。

それが自分の足で歩けるようになってから、あれこれ覚えて自分で物事を考えて「自我」に生きるようになりました。

いつのまにか親におまかせして生きることを忘れ?自分で頑張ってきたみたいな気になってしまったのが悲しいかな私たちではないでしょうか。

歳老いた親を邪険にしたり、中には罵声を浴びせてしまう方もたまに拝見します。

「おいおい、子どもさん、あなたもいずれ年寄りになりますぞ。この世は因果応報だよ。必ずあなたが我が親の歳になったらあなたの子どもや孫から同じ扱いされますよ。」と、心の中で思っています。

「言葉にすると争い事になりますからね」


亡き母が常々言ってくれていましたよ。

【他人のふり見て我がふり治せ】


鏡のようなものです。

私たちは目が外へ向いているから他人のことは悲しいほど見えます。逆に自分のことがわからない。見えていないから。

鏡を見ても残念ながら反対にしか見えないのですよ。

だからいつまでも自分自身を知ることが難しいのですね。


仏教ではどうやって我が身を知るのか、それは仏法聴聞をして仏の側からの眼で自身を知らされていくのです。

人間はお釈迦さまの時からずっと、そうやって自己内省をして生きてきたのです。

そうしなくては、人間は愚かな自分には気づけないのです。

だって世の中で、どれほどの人たちが自分を「愚か」などと認識しているでしょう。

お坊さんですら、知らず知らずのうちに「自分は偉い、【師】などと勘違いしがちなのだから。」

これは「報恩」に生きていることを忘れてしまうと、いつのまにか師匠になってしまうのです。


だから偉そうなお坊さんを見かけてしまうのでしょうか。私は個人的にそう感じています。

宗祖親鸞聖人は徹底的に民衆の輪に自ら飛び込んでいかれました。

ついつい、いつのまにかそれを見失ってしまいがちです。だから悩みます。

悩んだってしかたないよ。

先ずは地元の人たちに向かって住職が飛び込んでみりゃあええんですよ。


教えてあげるんやなくて、人生の先輩、経営者の先輩から学ぶことって実はたくさんあるんですよね。

浄土真宗の素晴らしさは、こういう身の軽さじゃないかと私は常々思っています。


浄土真宗が楽なのは、苦悩の私に常に阿弥陀さまは寄り添っていてくださるのです。


『正信偈』に、「大悲無倦常照我」と親鸞聖人がお示しくださっておられるじゃないですか。

私が忘れても、忘れてくださらない仏さまがいらっしゃいます。それは阿弥陀如来です。

南無阿弥陀仏ですよ。

この愚痴の、他人の悪口ばかり生意気に言う私の口に阿弥陀如来は宿っていてくださいます。


そして、いつも人生をご一緒してくださいます。だから、晴れたら晴れを喜び、雨なら雨を喜んでいく、そんな生き方こそが【念仏者】というのだと思います。

私は常々そう思いながら生きています。


だってお母さんが生涯、そのことを教え続けてくれましたからね。

有難い母に出会えて良かったなぁ。

その身はなくなってしまったけど、南無阿弥陀仏の声となっていつも側で笑顔で微笑んでいてくださいますよ。


それがわかった人の人生は【楽】なのであります。


是非、私でもわからせていまだけたのですから、皆さまも意地を張らないで素直になって南無阿弥陀仏と声に出して称えてみませんか?

お爺ちゃん、お婆ちゃん、お父さん、お母さん•••••皆さまにご縁をくださったご先祖が皆さまと一緒に生きてくださっていると受け取れたら、【今】生きていることがきっと【しあわせ】と感じられるはずだから。


しんどくなったらいつでも私のブログを覗きにきて。それでもしんどかったら私に会いに来てよ。きっと優しいあなたの笑顔を取り戻せるはずだから。


一緒に阿弥陀さまと生きていきましょう。

南無阿弥陀仏、ナンマンダブツ、南無阿弥陀仏

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