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執筆者の写真超法寺の住職

【法話】というもの

皆さま、こんばんは。

今日もまた一段と新型コロナウィルス感染者が増えましたね。また日本海側は大雪が降っています。ホワイトアウト(あれは怖い)も起きているようです。

どうぞお気をつけください。


私の今日は、午前中お散歩に出かけご近所さまと会話を楽しみ、その後は僧侶派遣会社宛に紹介手数料を振り込み(4カ所)に走り回って、午後から大宮区で火葬式を勤めました。

おかげさまで新年早々、法務をたくさんいただき日曜日まで走り回ります。

安全運転していますよ。


明日も朝一から法務をいただいております。

身体が資本ですからね。早寝早起き(もう慣れましたが)して頑張っていますよ。


さて、超法寺ではいかなる法務でも「法話」をさせていただいています。

なかなか初対面での法話は難しいもので、その時に感じたことを大切にしながらお取り次ぎしています。


ではどうして法話は難しいかというと、皆さまは法話を聞きたいとは思っておられないのですね。

超法寺でも、毎月28日に安穏法話会を開催していますが、問い合わせはいただくのに実際にはほぼお参りには来られません。

テレビやタレントの講演会、落語や近頃はお坊さんによる漫才などもありますが、仏教の話をお聴聞したい方は本当にわずかであります。


ではなぜ、皆さまは法話を聞きには来ないかと言えば、簡単な話、聞いても面白くないからですね。

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自分の持っている考えを皆さまに聞かせようとするからではないでしょうか。

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そもそも「法話」というものは、【仏教の教え】を語るものであり、思想や信念、人生観を聞かせるものではありません。

自慢話など皆さまも私も(笑)聞きたくないし、講師さんによっては家族(子ども)の話を楽しげにされる方が意外に多いように思います。会ったこともない子どもの話なんか聞いて何が嬉しい?楽しい?

そんなものは仏教の教えではないのです。

甘んじて講師のお寺で話すならばギリOKかな。

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ましてや専門用語の羅列も、ただ知識を得るだけで(授業)、お聴聞とは意味合いが違う気がします。

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世間話に執着していては仏教にはなりません。

あくまでも世間を批判的に見ることが要求されます。

❌道徳的な話は法話ではない。

仏教の名において「道徳」を説くことはお釈迦さまに楯突くことになりますよ。

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道徳は他人を糾弾するためにありますが、仏教の「戒」は他人を赦すためにある。

むしろ自分を糾弾するのが戒の精神です。

⭕️出世間の教えを説こう。

お釈迦さまは、「自分は世俗の欲望を満たすために出家したのではない」と明らかにされています。

❌「成功」を説くのではない。

仏教の教えを実践すれば、金持ちになる、健康になる、家庭が円満になる、役に立つ人になれる•••••などと功徳を説く僧侶がいますが、実におかしな話ですね。

❌お寺に人が参らないから落語家を呼んでとか、ミュージシャンを呼んでとかは本末転倒なのです。

⭕️浄土真宗が800年以上確たる仏法を伝えてこれたのは、人々に迎合してこなかったからですよ。

仏教の世界を知ることの素晴らしさは、決して「絶望」することがない。

🔴仏さまの「物差し」を教えていく。

人間の物差しを捨てさせるのではなく、いつも人間の物差しと仏さまの物差しの二本で全ての物事を見ていくのです。

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全てのことを「有り難いことだなぁ」と受け取らせていただくのが仏さまの物差しなのです。

ただし仏さまの物差しには目盛りはございません。

人間の物差しにはプラスとマイナスがあります。

人間の物差しでは、病気はマイナス、お金持ちはプラス、貧乏はマイナスとなりますか。

🔴仏さまの物差しは、健康も有り難いことだし、病気も有り難いことです。

なぜかは日頃からのお聴聞の中に知らされます。

仏教の素晴らしさは、全てをポジティブに受け止め、受け入れていける私になれることなのですよ。

だから、お寺でお聴聞したのに、腹が立ったり、機嫌が悪くなったりしたら、それはお寺さんの責任ですよね。

🟠確かにお聴聞には、即効性はないのかもしれませんね。だからこそ継続することが大切なのですね。

🟣《聞いて 忘れて 忘れて 聞いて わたしゃ籠耳 お慈悲の水を今日も一日ざぶりと浸かり ご恩よろこぶ しあわせものよ》

[渡邊尚爾師]


南無阿弥陀仏、なんまんだぶつ、ナンマンダブツ。

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