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法話はなぜ聞くのでしょう

皆さま、おはようございます。

今日は朝から蒸し暑くなりました。空は雲が厚くなったものの雨は降っていません。

梅雨らしいジメジメとした感じですね。

さて今日は赤坂までお参りをいただいています。お手伝いではございますが有り難く参らせていただきます。

今月は土日にお仕事がなく厳しい状況は変わりません。それでも皆さまのお支えにより何とかここまで来ました。

朝から本堂のお掃除を済ませて、もちろんお朝事もお勤めいたしました。ここへ来ての毎朝のルーティンになりました。しあわせ気分であります。南無阿弥陀仏の声と共にさせていただけることがこれほどの安穏な気持ちになるなんて素晴らしいと思う。


さて今朝は、[仏法(法話)を聞くとはどういうことなのか]についてご紹介します。

私は初めてのご縁には必ずといって皆さまにお聞きしています。「今、故人さまはどちらにおいででしょうか?」と。

皆さまはきちんと答えられるでしょうか。

浄土真宗は、阿弥陀如来のご本願におまかせして南無阿弥陀仏と声に御恩報謝のお念仏をいただき、阿弥陀如来のお救いによりお浄土へまいらせていただき二度と輪廻転生しない仏のさとりとならせていただきます。そして再び、五濁悪世[人間世界]へ還り、あらゆる命を救うお仕事をさせていただくのです。[還相回向(げんそうえこう)]と言います。

つまり、亡き人はお骨となりお墓で眠ってなどいないのです。

死んだのは私が生涯抱えていた煩悩が死んだのです[阿弥陀さまの他力本願により]。そして私自身は骨になったのではなく【往生】させていただくのです。この真実の法がわかるということが仏法を聞くことの意味であります。

どんなに法話を聞いても、教養人になったり知識人になるためではありません。そんなもののために法話を聞くのではありません。


[私が私であってよかった]と言える私になるためです。[あなたと出遇えたからこそ、私が私であってよかったと言える私であり得たのです]それを確認をさせていただくのです。

それこそが浄土真宗の門信徒として、御同朋(おんどうぼう)として生きる姿があるのです。私たちは家庭内にあって、父と子、母と子であります。夫婦であるといって生きていますが、それぞれの出会いは確かな出遇いとなっているでしょうか。お互い、父と子、母と子の生きざまそのものが仏法に遇わなければ決して解決がつかないような生きざまをしている。先ずはそこに目を覚ますことから仏法は始まると考えます。仏法に遇うとはそういうことだと思います。


『仏説観無量寿経』を知らされますとそのことがよくわかりますよね。分別をもって生きている人たちの理想的な家庭で起こった事件なのです。決して他人事ではありません。それなのに私たちは自分たちが日々生活をしていることが間違いなどないと思いながら生きています。そんな中で起こるさまざまな事件は【諸行無常】の理でありますから、いくらお祓いなどしてもどうにもなりません。仏法聴聞を重ねて私が私で良かったと思えるようにならなければいけないと思うのです。


実るほど 頭をたれる稲穂かな


自分が偉いと思っている人や[長]という肩書きがある人はなかなかお寺には参れません。だからなかなか仏法を聞くこともままなりません。昔からそう言われます。これは決して門信徒だけの話ではなく世間一般もそうだし、お恥ずかしいながらもお寺の住職もそうなのです。

仏法をお聴聞しないお寺さんはなかなかたくさんおられますよね。だから【ご法義】が繁盛しないのです。昔は繁盛していたのに今や南無阿弥陀仏の声すら無くなってしまったと本願寺のご門主もお嘆きされています。


皆様、ご一緒にお念仏申しましょう。


誰かに促されてお念仏を申すことなど本来の浄土真宗にはなかったことです。浄土真宗のお念仏は呪文でもお題目でもありません。先程も言いましたが、【御恩報謝】のお念仏なのです。

心からの喜び、それは本来死ぬまで煩悩から離れられない凡夫たる者は地獄しか行き場所がありません。そんな私たちを哀れみ阿弥陀さまと願いを建ててくださった法蔵菩薩さまのお心を知らないからではないかと思うのです。

昔から浄土真宗の方は、仏さまのお話しを日常的に聞いて生活をされていました。だからこその喜びがあり、必然的に口から喜びの南無阿弥陀仏が出ておられたのでしょうね。今や喜びのない形だけのお念仏[それでもまだ声になっているのは有難いが]では真実なる報土往生などできるはずもありません。私たちのご先祖は、お念仏を申し、仏さまのみ教えを聞いて生きてくれよとの願いを届けていてくださいます。皆さまがそうして生きていくことを常に願いながらおられるのに背を向けて生きていていいのでしょうか。今こそ、願いを知り、願いのままに生きて、私が私で良かったと思えるようになってこそ生まれてきて良かった、あなたと出遇えてよかったと思えるのではないかと思うのです。


さて、それではお参りへ行ってきます。

夕方からまた整骨院です。腰が激痛です。

ナンマンダブツ、南無阿弥陀仏

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