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法味愛樂(ほうみあいぎょう)

「み仏の み名を称ふるわが声は わが声ながら たふとかりけり」

                  〔甲斐和里子さま〕


「南無阿弥陀仏」呼び名に大安堵

名号「南無阿弥陀仏」を称えるお念仏について、次のような説明をお聞きします。

幼子が「お母さん」と母親を呼ぶ声に、「お母さんはここにいるわよ」と母親が応えると、母親の姿が見えなくても幼子は大安心している。

「お母さん」という呼び名はその幼子にとって母親の慈愛のはたらきあるものとして響いているのですね。しかも、その「お母さん」までも、母親に育てられていくうちに母親から教えられ与えられたもので、その呼び名を口にして母親の慈愛に包まれて安心しきっている。


南無阿弥陀仏と称名念仏するのは、ちょうどこのような幼子が母を呼ぶのと同じように、大慈悲のおはたらきの阿弥陀如来を、しかも阿弥陀如来から与えられた呼び名、南無阿弥陀仏をいただいて称えさせていただくところに、阿弥陀如来とともにあることに大安堵する、そのようにいただくことができるのです。


甲斐和里子師は、明治の世において「仏教主義の学校が京都に一つもないのは、まことに申し訳ないとの想いからいち早く顕道(けんどう)女学校を、そして文中女学校を創設されました。日本の女子教育に大きな足跡を残された優れた教育者でありました。甲斐和里子師は、女子教育に専念され現在の京都女子学園の基礎を築かれました。また浄土真宗本願寺派の宗学者、足利義山師のご息女であり、仏法の中に育てられ仏法を深く求め続けられた篤信(とくしん)のお方で、教育の場を離れられた後も、日々【法味愛楽】の生活を送られました。


 私の口について申しあげます。もとより総入れ歯で妙な口でございますが、その妙な口からお念仏があでましくださいます。いかなる大善大功徳よりも一声のお念仏の方がより尊いと聞かしていただいておりますが、さほど尊いお念仏が、ややもすれば人をそしったり、要らぬことを言いちらしたりする下品な私の口から、昼でも夜でも、またこれを書いているただ今でもドンドン御出ましてくださるということは誠に不可思議千万で、勿体のうてたまりません。

殊に人なき林の中などで声をたててお念仏していると、なんだか御浄土の如来様と御話をしているように感ぜられだして泣けてくるときがございます。


みほとけの御名を称ふるわが わがこゑながら 尊かりけり


 私の父(足利義山)はじめ、数々の御同行さん方が、心臓麻痺や脳溢血で一声のお念仏も称えずに往生せられたことを見聞し、何となく本意なく思いつづけて居た私が突然重い胆石病にかかり、呼吸も苦しうなって来た時「サアやがて往生じゃ、ここでひとつ大声でお念仏して周囲の人々に安心して貰うてから眼を閉じましょう、、、、」

と思いたち、それこそほんまに命がけで努力して見たが遂に不可能であった。再び全快するほどの精力であってさへ右のごとくあったから、他日いよいよの時私は遂に一声のおねもよう称えずに往生させていただくかも知れん。されば父はじめその他の学者さんや御同行さんたちもあるいはそうであられたのかも知れん。そうとすればさぞやハガユクおぼしつつ御往生なされたであろうなど思われだして、三十年以前の其の胆石病以来一層ありがたくお念仏させていただかれるようになりました。

 無学な老人の私でも何の努力も要らず、安らかに称えさせていただかれる此の南無阿弥陀仏さまのあらせられることのありがらさ嬉しさは、いくら書いても際限がございませんからもうやめますが皆さまお互いに精出しててお念仏して、一切有情(うじょう)に仏縁を結ばせてあげましょうではございませんか?

                    『草かご』甲斐和里子師


ご自分の口でお念仏しながら、そのしょうみょうねの響きに阿弥陀如来のはたらきがとどいている。阿弥陀如来のみ手が差しのべられています、と感じ取られているお姿が、ありありとあらわされています。「南無阿弥陀仏」とともにあることの尊さを感得しておられるおことばです。



 いはんやわが弥陀は名をもって物を接したまふ。ここをもって耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に欖入(らんにゅう)す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証(ぎゃくしょう)す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり

               『阿弥陀経義疏(しょ)』〔元照律師〕がんじょうりつし


訳)まして、阿弥陀仏の名号をもって衆生を摂め取られるのであるそこで、このみょうごうをみみにきき、口に称えると、限りない尊い功徳が心に入り込み、長く成仏の因となって、たちまちはかり知れない長い間つくり続けてきた重い罪が除かれ、この上ない仏のさとりを得ることができる。まことにこの名号はわずかな功徳ではなく、おおくのくどくをそなえていることが知られるのです。


◎「南無阿弥陀仏」という名号が、生きとし生けるもの(衆生)をとらえて離さない、それで、み名を聞き口にとなえると、如来の尊いお徳が、おはたらきが私どもの心に入り込んでくださる、と言われています。


阿弥陀如来の大慈悲に抱かれておられるお姿があります。

これは南無阿弥陀仏とお念仏を申す日暮らしの中に培っていくのでしょう。


私自身も、ことあるごとに南無阿弥陀仏を口に称えさせていただきます。

それでも愚痴から逃れられずの私を恥ずかしいと思うのであります。

先人たちのお言葉をお味わいしながら我が身を振り返って生きていくこと、そのまま一人ではなかった、常にご一緒してくださいましたとのお気づかせでありました。

南無阿弥陀仏

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