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決して忘れない安心がある

○訪れし 老たる母は 子の吾に 深々礼し 遠ざかりゆく

           (平成20年1月27日 日経新聞 東京都 中山邦子さん)


○初暦 未だ見ぬ日々の 畏しき

           (1月3日 西日本新聞 福岡県 奥西邦夫さん)


認知症の母は子供である私をも忘れ、母の世界から私は消えたのか。

その母をあわれと思うと共に、言い知れぬ寂しさ、悲しさが込み上げてくる。

子供として、母から忘れ去られるようなことしかしてこなかったのではないだろうか。私はおかげさまで最後まで母は私を忘れずにいてくれました。

それが私のしあわせでした。

この方は、母を施設に入れ、日常の介護は他人任せにして、時々訪れる私など、

すでに母にとって他人と同じなのでしょうか・・・・・。

母が私を大切にしてくれたほどには、母のことを思っていない私。

母のいない日常を楽しんでいる我が身の親不孝を「お前なんか知らん」と、母は告げているのかも知れませんね。どうでしょうか。


今でも私の心に母は常に寄り添い、南無阿弥陀仏の声となってご一緒くださいますことを私は知っています。この安らぎはいただいた人にしかわからないのです。

教えに遇ってください。教えを聞く人になってください。

ならずに世を憂いでも虚しいままです。

亡き人を仏さまと仰ぐことは何にも代え難い安心となります。


もう一つは、いつ何時に私がそうなるのか、思えば喜びよりも畏ろしい。

今年のお正月に新年の喜びを笑顔で語り合ったはずが、一瞬の大地震によって全てを失った人がありました。これは他人事ではありません。

いつ私の身にもそうなるか、いつかはそうなるのです。

その覚悟があれば、後回しになどできない今を何を灯火として生きていくかを真剣に考えられるのでしょう。まだ大丈夫が私の足元を掬っていく。


母が見せてくれたもの、それはいつかの私かも知れませんね。

覚悟はいいか?


誰にでも、些細なことでもありがとうと言える人は、他人から大事にされると聞きました。

あなたは日頃からそうしておられますか?すぐにはできるようにはなれませんよ。

日頃からそうしてみましょう。

もちろんナンマンダブツも同じです。


南無阿弥陀仏を我が身にいただけたら、決して一人ぼっちにはならない安心感の中に生きていけるのです。私を忘れてしまった我が親にもお浄土にてまた笑顔で逢える楽しみがあります。有難い道であります。南無阿弥陀仏

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