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「水」のように生きたい

皆さま、おはようございます。

いつも通りの朝を迎えさせていただきました。

これは大変有り難いことですね。

それでも間違いなく昨日とは違う私ではあるのですからね。そしてまた一歩、人生を終える私になっているのですからね。


今月も早、折り返しに近づいています。

何とも慌ただしく早いことでしょうね。

さて、あれほど暑い暑いと大騒ぎした夏も終わりこれから寒い寒い冬が訪れます。

覚悟はいいですか。

今年も台風や長雨がありましたね。

今、あまり雨のないイスラエルという国で多くの血の雨が降り注いでいます。人間はいつまでこのようなことを繰り返すのでしょうか。

争いの中では、弱い立場の方が命を奪われ、家族を奪われ我が子を失い絶望と深い悲しみに苦しまねばならない方々がいることを忘れてはなりません。失われてよい命など決してありません。人種が違うから争う、国が違うから争う、考え方が違うから命を奪い合う、そんな論理がまかり通るなど真実ではありません。


人間が生きていくには「水」は欠かせません。

言葉にも「水」は、「水くさい」とか「湯水のように」、「水に流す」という使われ方がされます。是非、争いごとも「水に流す」、そんな世界になればいいなぁと願わずにはおれません。南無阿弥陀仏の願いはイスラエルやパレスチナにも届いていることでしょう。

ただ、それをはねつけていては意味がありません。「水」の流れを支える岸がありますように、仏のはたらきもあります。

私には南無阿弥陀仏を称えていくしかありません。そしてなるべく人を責めずに生きていくことしかありません。


「水」というものは、嫌われようが捨てられようが、自在に姿を変え一切平等にはたらきかけ、いのちの依りどころになります。

これはまさに菩薩(仏)の如き尊さではないでしょうか。

綺麗な水も濁った水も大海にいたれば清濁の違いを超えて溶け合い一味の仲間になります。

日本の海も、ハワイの海も、オーストラリアの海も、UAEの味も同じでしたよ。


【日々出会う何でもない当たり前の人を拝む私でありたい】(榎本栄一さん)


み仏に導かれた菩薩(仏)の言葉であります。

当たり前と捨てられるものを拾う視線が尊い。

「水に学び」、尊きいのちを敬い、手をたずさえていく道こそ私たちが歩むべき【真実】の道ではないでしょうか。

そんなことを思う朝です。

皆さまも、なるべく人と争わず拝んでいける、そんな一日にしてください。

皆さまが争わねばならないものこそ仏から拝まれている命なのですからね。


浄土真宗の生活信条


み仏の誓いを信じ、尊いみ名を称えつつ、

強く明るく生き抜きます。


み仏の光をあおぎ、常にわが身をかえりみて

感謝のうちに励みます。


み仏の教えにしたがい、正しい道を聞きわけ

て、まことのみのりをひろめます。


み仏の恵みを喜び、互いにうやまい助けあい

社会のために尽くします。



南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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