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気づかぬもの「慢」

皆さま、こんばんは。

今日は風が吹き荒れていましたね。

巨体の私が飛ばされそうでしたよ。(無いか)

平日だというのに朝からお参りで走り回りましたよ。日出町→さいたま市見沼区と。


短い法話でしたが、わかりやすくて明るい気持ちになりましたよ、とお褒めの言葉をいただきました。こういう一言って嬉しいです。


仏さま〜阿弥陀如来〜

仏さま

「いつでもどこでも私たちは仏さまに照らされています。南無阿弥陀仏、ナンマンダブツと。

常に阿弥陀如来のはたらきに包まれています。一人残らず阿弥陀如来はお救いくださいます。

それなのに、思い上がっていると阿弥陀如来の尊いおはたらきも、おかげさまも、ご恩もわからない。だから自分の愚かさも見えてこないのです。」


思いあがりは、いつでも自分は正しくて(善い)、悪いのは(間違えている)向こう。

いつも自分の考えにとらわれて自分がどんなに間違っていても全然気づくことがないまま過ごしてしまいます。


だから阿弥陀如来の他力本願の優しさをなかなか受け止められないから、南無阿弥陀仏が称えられない。ご先祖が、故人が一番喜んでくださるのは、私が日々を南無阿弥陀仏を称えながら生きていくことだという、それがわからない、気づかないのであります。


しかしながら、阿弥陀如来はそれでもそれでもと私の上にはたらき続けておられるのです。


阿弥陀「ミダ」は量るという意味。

「ア」は打ち消しの接頭語で、次に来る言葉の意味を打ち消しますから、「アミダ」は【量ることができない、量り知れない、[無量]】


無量の内容

◉いのちに限りがないということは、どんな時であっても休みなく、すべてのいのちの上に、常にはたらいていてくださる仏さま。


◉ひかりに限りがないということは、どんなところにも、すみずみまで行きわたってすべての世界をどこまでも等しく照らしていてくださる仏さま。


すべてということは、疑い、羽つけ、背を向けている私であっても阿弥陀さまははたらいていてくださるということであります。

つまりは阿弥陀さまと私の根比べですよ。

私は負けてしまいました。


皆さまはどうでしょうか。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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