死別の後でその人の心にあう

皆さま、おはようございます。

今朝は雨が降り寒くなりました。

お風邪などひかないようご用心ください。


さて、日頃より人々の悲しみの場に同席をさせていただいていますが、いかにしてその悲しみに寄り添えるかを考えています。


宗祖親鸞聖人は、『正信偈』にて、

阿弥陀仏の摂取の光は、信心の人を常に照らし護るから、苦しみの長い夜がようやく明けた。

たとえ太陽と月が雲や霧に覆われようとも、暗闇は追い払われ、雲や霧の下には光が届いている。同じように知るべきである。

清らかな信心が貪り(むさぼり)、悲しみ、怒り、憎しみの雲や霧に覆われようとも、それらを突き抜けて、み仏の大いなる慈悲があなたを護る。心を覆うどんな雲や霧も往生の妨げにはならない。


ここに阿弥陀仏の大いなる慈悲が、悲しみ色の雲を突き抜けて、私を優しく育んでいることを見出すことができるでしょう。


悲しみは、そんなにたやすく消えるものではありません。

しかし私たちは深い悲しみの中でこそ、まことの慈悲にであえます。

逆に言えば、み仏の大いなる慈悲、他力によって私の人生がしっかり護られているからこそ、ありのままに安心して涙することができるとも言えるでしょう。


小林一茶さんは、

渋柿の渋がそのままにして甘みかな

と詠まれています。


悲しみがいつしかそのまま心の優しさ、人生の豊かさに変わってくるという意味なのでしょうか。


浄土真宗のみ教えに出遇うと、日々私たちが避けようとしている悲しさからこそ、まことの優しさを学ぶことを知らされます。

いかなる死を迎えようとも、阿弥陀如来さまの摂取不捨の他力本願のおはたらきによって、私たち人間はみ仏にならせていただくのです。


このおいわれを知らされるには、身近な大切な人が縁となってくださったからこそ、聞くことのなかった仏法にであい、いのちの行方を知らされるのでしょう。

阿弥陀如来の慈悲を聞き、他力本願を受け入れることで離れたくはなかった亡き人とまた遇うことが誓われていることの安らぎを得ることができるのです。


悲しいかな、私を含め生きている私たちの死亡率は100%です。また縁が尽きれば今日でも死んでいかねばならないのです。

そんな不安定な私だというのに、阿弥陀如来さまにお遇いせずに生きてしまったら勿体ないよ。阿弥陀如来さまをはねつけたら私が安らぎの浄土へ生まれさせたいという亡き人の願いを「無」にしかねないのですから。


私もかなりはねつけて生きてきました。

もう他人事にして謳歌していました。

その中でさまざまな方々が私に教えてくださいました。

それでも、それでもと。

見捨てずに教えてくださいました。


阿弥陀如来さまも、今に十劫の昔から私を仏にしたい、浄土に生まれさせたい!と、喚びかけ、願い続けてくださいます。

いつまで自己の殻にこもり続けるのか。

間違いないから安心してまかせてくれ、と涙を流しながらお願いしていてくださいます。


おまかせして生きていくことの「たのもしさ」を是非知りたいものですね。


今も遠いウクライナでは人間の欲望の暴走により数多くの方々が悲しみ、苦しみ、怒り、憎しみの真っ只中で尊いいのちを奪いあっています。いつまで繰り返すのだろうか。

私たちはコロナ禍で苦しんでいますが、他人に命を奪われることは無いだけしあわせだと思うのに、そうは思えない悲しさがありますよね。


阿弥陀如来とご一緒だと知らされると、どんな悲しみ、苦しみも一緒に喜んで生きていける不可思議な世界にあることができます。


こんな安らぎは、私たちのために仕上げられた「ご本願」だからであります。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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