死んだらおしまい?

皆さまこんにちは。

今日はうちの子を美容院へ連れて行くついでもあり、ポスティングへ行きました。

小一時間で250部投函しました。

なかなか駐車スペースがなく困りましたよ。


さて今月は春季彼岸会です。

浄土真宗のお彼岸についてご紹介していきたいと思います。

最近はコロナ禍の影響かお参りがほぼありません。寂しいですね。

ひょっとしたら私が嫌われてしまったのかな。


ま、それもあるでしょうね。

それは甘んじて受け入れます。

しかし、少しずつ超法寺へ来てみたいとおっしゃってくださる方もいらっしゃる。

それぞれだけど、それはまた嬉しいですね。


さて、浄土真宗のお彼岸はだいぶ世間の常識とは違うように思います。

葬儀の場でいつも感じるのですが、先ずお飾りについても意外と不自然と感じない方が多いように思います。確かに葬儀屋さんがするのだから間違いないと思っているところもありましょうが、仏教は宗派によって意味合いが違うのです。浄土真宗以外では、お棺の中に旅装束(杖、草鞋、手甲〈てっこう〉、脚絆〈きゃはん〉、六文銭〉を入れていることがあります。

これは死んで旅に出て三途の川を渡る、旅路には長旅になるから杖がいるとか、三途の川を渡る船賃で六文銭がいると本当に思っている。

これは浄土真宗の方でもいたりするから悲しいのですが。


一人旅になるというのでしょうが、これは浄土真宗のみ教えにはありませんよね。

だって浄土真宗は阿弥陀如来さまと二人連れの人生を生きるのです。

また、旅も死んでからではなく「今」であり、また阿弥陀如来さまとご一緒の頼もしい旅路です。

また、その度は漠然としたものではなく阿弥陀如来さまが、この私一人のためにご用意してくだされた「お浄土」へ向けての旅路であります。


だから浄土真宗では、お棺の中に死装束の旅支度は必要がないのですね。

超法寺では、お棺の中には喪主さまに、「南無阿弥陀仏 其仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国 自致不退転」と書いた法名用紙を故人の胸元に置いてからお花を入れていただいています。


私の努力など必要はなく、全て阿弥陀如来さまの仏力によってのみ、私たちはお浄土に往生して成仏させていただくのであります。


娑婆のご縁が尽きたその時に、お念仏をいただいた私たちは「往生即成仏」するのですね。

何にも疑うこともなければ、心配することもないのです。阿弥陀如来さまにお任せしたままで間違いなく迎えに来るのではなく、阿弥陀如来さまに摂め取られていくのですね。


浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、門弟に宛てたお手紙の中で、このようにおっしゃっています。

【この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。】(『親鸞聖人御消息』第二十六通)


意味は、《私は、もう歳も極まりましたので、きっとあなたよりも先に往生するでしょう。その時は、お浄土で必ず、必ずお待ちしておりますよ。》


つまり、浄土真宗では「死んでおしまい」、「お骨になってお墓で眠る」、「地獄へ堕ちる」のではございません。

南無阿弥陀仏のお声と出逢えたならば、必ずお浄土に往生させていただいて、二度と苦悩することない仏とならせていただいて、また遇える世界があるのです。

別れたくはなかったあの懐かしい方々にまたお浄土で遇わせていただける喜びの世界を「今」聞かせていただくことで、「今」を大切に悔いなく生きることの素晴らしさを知る仏縁が、お彼岸なのです。


死んでおわる、そんな寂しく悲しい私の人生ではないのです。

喜びの別れのないしあわせな世界へ向かって私たちは生きているのだから。

それを知らずに生きているなんてつまんないよね。


だからこそ、超法寺はお花入れの時に参列の皆さまに、「今までありがとうございました。また会いましょうね。」と、お声がけしてくださいとお伝えしています。

サヨナラしない世界が浄土真宗の素晴らしいみ教えなのだから。

【倶会一処】(くえいっしょ)の世界です。


浄土真宗の素晴らしい仏縁に遇われた皆さまは、是非、墓石にはこの【倶会一処】または【南無阿弥陀仏】と刻んでいただきたいですね。

故人さまはお墓で眠ってはいませんよ。南無阿弥陀仏となって私と共にいらっしゃいますよ。

生前を偲ぶ場がお墓です。

だから浄土真宗の御門徒はお墓参りだけで済ますのではいけません。

お寺でお彼岸のいわれをしっかりと聞かせていただきましょう。

ちなみに住職は、21日、築地本願寺あきるの分院の春季彼岸会布教へ呼ばれています。お聴聞くだされば嬉しいなぁ。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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