死ぬことの意味
- 超法寺の住職
- 2024年1月25日
- 読了時間: 2分
皆さま、おはようございます。今日も寒いですね。
なかなか体調管理が難しいですね。などと言いながら今月も終わりに
近づいています。今月もさまざまなご縁をいただいて。
嬉しいこと、辛いこと、苦しいこと、そして大切な方を見送る「死んでいかねばならないこと」にお出会いさせていただいています。
どう死んでいくかではなく、どう生きたかが問われますね。
せっかく人間に生まれたと言うのに仏法を聞かずに生きたならば悲しいことです。
せっかく浄土真宗のご縁に遇えたというのにきちんと聞いておかなかったならば、森に入って木を見ないということで意味がありません。
ただ「欲」の中に生きただけでは生まれてきた本当の意味を見出せなかったと言わざるをえません。
本末転倒してはいけないのです。
人生を全体として受け止めていく立場を見つけなさいということ、それは「老いていく」「病気になる」ということがある意味なのです。
それなのにいつまでも「若さを追い求め」「健康を願っている」のが「欲」の中に生きることです。
仏教が教えてくださることは、「いのち🟰生きている」から「病気になる」
生まれたから死ぬのです。
人間は生まれたから死ぬのです。
生まれないものは死にません。
そして何より、死んで終わっていく世界でもありません。
ここを今、問うて生きていくことが仏教の道なのです。
浄土真宗は「南無阿弥陀仏」を心の灯として生きていくのです。
縁が尽きれば待ったなしで終わっていかねばならない私ですから、今何をして生きていくのかが重要となります。お金も大事ですが、時間はもっともっと大事です。
後悔を少なくするためにもここに気づいていくような目覚めが必要です。
人生の苦悩を、土壌として,まことのいのちの花ひらく。
「人生は苦なり」
お釈迦さまの教えは、天上天国を目指し、享楽の夢を求めて彷徨う人間の闇を破り、
人生の楽しみも苦しみも皆、苦であることを明らかにされました。
生きる喜びも、死の恐怖もすべて「生死の苦海」であります。
その苦の原因を知らない身を【凡夫】という。
しかし苦悩する意味が明らかになれば、「苦悩」こそ、我がいのちとして苦悩の中に生きる智慧をいただくのです。
それは泥中に咲く蓮華のごとく、凡夫のいのちに花開くのです。
ナンマンダブツをお称えしておきましょう。
そうして、私のできること、すべきことを精一杯させていただきましょう。
ナンマンダブツ
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