皆さま、こんばんは。
連休はいかがお過ごしでしょうか。
しばらく連休はずっと雨(台風)でしたが、
今日は晴れました。
高速はまた渋滞していますね。少しは学習していただきたいですね。是非事故のないようにお願いしたいですね。
また今日からプロ野球はクライマックスが始まり、我がライオンズは大事な初戦を一番警戒すべき柳田選手の一発で無惨にも負けてしまいました。
やはり打つべき人が打つと強いのですね。
ライオンズは山川穂高が打たねば勝機はないようです。若手の台頭の差が試合結果に現れた。
ドラフトでは即戦力内野手、捕手の指名が必要だと痛感しています。
明日は今井達也の熱投に期待して下剋上劇場に期待しましょうか。
さて、常々思っていることについて問い合わせしてみましたのでご紹介いたします。
『歎異抄』の一節であります。
《念仏申し候へども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころね候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば》
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〈現代語訳〉
お念仏は称えておりますが、おどりあがるほどのよろこびがわいてきません。
また、はやく浄土へまいりたいと思う心もございません。これはいったい、どう心得たらよろしいものでしょうか。
《親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。
よくよく案じてみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定(いちじょう)とおもひたまふなり。》
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〈現代語訳〉
親鸞も、そのような疑問をもっていたのですが、唯円房、あなたもおなじ思いをもっているのですね。
よくよく考えてみますと、天におどり地におどるほどによろこばねばならないことであるけれども、それがよろこばれないからこそ、いよいよ浄土にまいらせていただくことはまちがいないと思っております。
《よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為(しょい)なり。しかるに仏(ぶつ)かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰られたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。》
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〈現代語訳〉
よろこばねばならない心をおさえてよろこばせないのは、煩悩の所為です。
ところが、阿弥陀如来は前もって、わたしどものことをお見通しになっていて、【あらゆる煩悩をもっている凡夫である】と仰せられているのですから、【阿弥陀如来の大慈悲心より起こされたご本願は、このようなあさましいわたしどもを救うためであったな!】と知らされて、いっそうご本願がたのもしく思われることであります。
《また浄土へいそぎまゐりたきこころなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。
久遠劫(くおんごう)よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養(あんにょう)浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛(こうじょう)に候ふにこそ。》
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〈現代語訳〉
また、浄土へはやくまいりたいという心もなくて、ちょっとした病気にかかっても、死ぬのではないだろうと心ぼそく思うのも煩悩の所為です。
以下は次回にご紹介いたしますね。
※煩悩を抱える私たちは、残念ながら死んでも煩悩から逃れることはできません。煩悩を脱却〈克服〉しなければ天国にも浄土にも参ることはかないません。まさに地獄しか行く場所はないのです。
浄土真宗のみ教えに遇うということは、私がとても救われるような生き方ができないという認識(地獄の私)を持つことであります。
地獄行きの私(自分)に気づかないから仏さまを仰ぐことも、仏法を聞くこと(聴聞)もできないのです。
仏さまのはたらきは、私の(自我)殻から出る目覚めを促していてくださるのです。
そのお心を『歎異抄』では唯円房を題材として語りかけているのでしょう。
そういう受け止めをもって『歎異抄』を味わうことが大切だと思います。
何度も何度も読み返して味わってみてください。
きっと遇わせていただけた仏縁が誰でもない私のために亡き人が結んでくださった有り難いものであったと知れることでしょう。
私も改めて『歎異抄』のお言葉を味わっています。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
追伸
『七人の秘書』のワンシーンに懐かしい築地本願寺の廊下を撮影で使われていました。驚きましたよ。納骨堂へ行く通路で、私が研修していた時毎日毎日通った懐かしい場所です。映画も観に行かなきゃ。
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