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執筆者の写真超法寺の住職

極重悪人唯称仏

皆さま、こんばんは。

明日からまた寒くなるそうですね。

体調を崩さないように十分気をつけたいですよね。

さて、日頃よりお勤めの際に「正信偈」を読んでいますが、気になることがあります。

「極重悪人唯称仏」です。

皆さまはどのようにいただかれていますか? これって誰のことを親鸞聖人は仰っておられるのでしょうか。

私たちはお念仏をお称えさせていただいていますよね。

どうしてでしょうか。誰のため、何のためのお念仏なのでしょうか。

無性に考えることがあります。「お念仏申しましょう」はどうして?

「仏恩報謝」(ぶっとんほうしゃ)って何?

簡単に言えば「お礼をする」です。

皆さまはお礼をする時のシュチュエーションってどんな状況ですか?

心から嬉しかった時に言葉となって出てくれる言葉ではないでしょうか。

人から促されて言うことではないと私は思っています。


たまにお母さんが子どもさんに「お礼言いなさい」って怒っているのを聞くことがありますが、誰かに怒られながらお礼するってなんか疑問です。

それを言われて子どもさんは不貞腐れたような表情で「ありがとうございました」って言ってる。う〜ん、これってお礼なんだろうか。違う気がする。

やっぱりお礼って、自身の心からの喜び、感謝の心によって自然と出てくる言葉じゃないかと思う。

昨今、論議をよんでいる「新しい領解文」(りょうげもん)ですが、これは何のために読むのでしょうか。そもそも「領解」って何?

辞書で調べると「仏の教えを聞いて悟ること」とあります。

領解違いは、「考え違い、誤解」とあります。

仏法聴聞させていただいて考え違いをしていた自分に気づかせていただいた喜びを感謝することではないかと思うのです。誰が?聞いた自分がです。

誰かに促されて言うことではありませんね。

お念仏もそうです。

法然聖人は、「お念仏は人に聞かせるものではないよ。自分の耳に聞こえるくらいの声で称えて、こう聞きなさい。あなたのことは阿弥陀が救ってあるから心配するなよ」と仰っておられます。



感謝の喜びが声となって表れたのが南無阿弥陀仏ではないでしょうか。

嬉しくもないのに出てくる言葉ではないように思います。

浄土真宗のお念仏は、呪文ではありません。

ましてや称えたから救われるのでもありません。

称える前からもう阿弥陀さまが私の中に飛び込んで宿っていてくださっていることに気づかせていただくのです。そうすることで誰もが漏れなくお救いに遇えるのです。

明治時代に広島県におられた高松悟峰和上(先生)がこうおっしゃておられます。


 声に姿は無けれども 声のまんまが仏なり

 仏は声のお六字と姿を変えて我に来る


私は初めて師匠(福田康正師)からお聞かせいただいた時、衝撃でした。

これこそ仏さまのおはたらきだ〜って嬉しく思って一生懸命覚えたのでした。

それからことある度に味わいを深めてきました。

阿弥陀さまは、姿ではなく(姿は暗いと見えない、わからない)、どこでも見える声の仏さまとなって、南無阿弥陀仏となり私に寄り添っていてくださるのです。

ナンマンダブツと聞こえたならばもう知る前から私にきてくださり、まかせよ、救うと喚び通しに喚んでいてくださっているのです。

私が信じる前にです。だからお礼しなさいは必要がない教えが浄土真宗ではないでしょうか。どうですか?違うかな。

阿弥陀さまという仏さまは、私を必ず救うと言う願いで仕上がっている仏さまであります。「たのむ」は、私の助けてくださいが必要がない先手のお救いなのです。


「依頼」🟰たのむではありません。

親鸞聖人は「馮」(ひょう)と言う字を当てておられます。

阿弥陀さまのお救いは、【一体】となるお救いなのです。

算数で表せば、1➕1🟰2(一対)ではなく、1➕1🟰1(一体)になります。

この論理がわかれば阿弥陀さまのはたらきがお分かりいただけるでしょう。


ではなぜどこどこまでいってもこの願いなのでしょうか。

それは諸仏、神が見捨てた存在であるからなのです。

真理を見ずに、常に煩悩の中にあり続ける私がいるからなのです。

法蔵菩薩(阿弥陀)は、すべてのいのちを救う仏になろうと誓われました。

その上で、長い長い時間(五劫思惟)考えられ、この手で行こうと。

そしてそうれを遥かに超える時間修行されて完成されたのが、ナンマンダブツ一つで救う法を完成されたのです。

煩悩から離れられず、自身で修行も悟りを開くこともできない私は、ナンマンダブツを我が身にいただいて(声に称えて)、阿弥陀さまの大慈悲心によってのみお救いに遇えるのです。

ですから親鸞聖人は、「極重悪人(煩悩具足の凡夫)唯称仏(南無阿弥陀仏と称える)」

と仰ったのですね。


ここまでして私のために尽くしてくださる「親心」が、私の親が縁となってくださって私にはたらいていてくださるのです。それでも私はお救いに背を向けています。

悲しくないですか?お気づかせいただくとお恥ずかしいと頭が下がります。

下げるんじゃなくて下がるのです。


親ってありがたいですよね。親だからこその願いであります。

どこまでも決して見捨てない親心に是非お遇いして、その感謝を声にして

南無阿弥陀仏、ナンマンダブツと声にさせていただきたいものですね。


ナンマンダブツ

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