皆さま、おはようございます。今朝も冷えますね。
ようやく例年の十一月となりましたね。
そろそろ冬タイヤに履き替えもしなければならないですね。
冬支度する必要が出てきました。滅多にスーツなど着ないお坊さんですが、
世間ではやっぱりスーツが基本だから新調する必要があるね。
すぐ忘れるからね、今日行こうかな。
さて、報恩講ですね。
我が宗門ではお参りすると「皆さま、ご一緒にお念仏申しましょう」との
声がかかります。私はずっと違和感を感じています。
そもそも浄土真宗のお念仏は呪文でも掛け声でもなく、お救いへの感謝です。
つまり、有難うございますですから。
皆さまは、人に感謝の言葉をするのに誰かに言われてされますか?
そんな人はおいでにないと思いますし、そんな有難うは心から嬉しく、有り難く思ってはいないのではないでしょうか。
確かにお念仏申すのが浄土真宗ではあるのでしょうが、それは人に言われてするものではないのです。
明治時代の浄土真宗寺院では、本堂にお参りされる方々は
常に喜びのお念仏をされていたそうです。今でもご本山、西本願寺へお参りするとお晨朝や法要で前にお座りの方が大きな声で「ナンマンダブツ」とお称えされている光景を見かけます。数は少数ですが私は昔ながらのお念仏を聞けて嬉しく思うのです。
ただ、あの声を「うるさい」という人もいるからそちらの方に問題があるように思うのです。
お念仏を申し、喜びを表現しているのに文句を言う人がいるのが今の浄土真宗。
【ご恩報謝のナンマンダブツ】というのにお礼して文句を言われる、そんな宗教にどうしてなってしまったのか。
お寺には総代さんという門徒の世話人がおられますが、法要が始まる前に、ご講師が出て来られる前には本堂内はお念仏を申される方の声でいっぱいだったそうです。
ですから門徒総代さんが、前に出て「皆のもの、念仏やめい」と号令をかけていたほどお念仏を喜んでおられた時代があったと聞きます。
私はハワイ開教区五十周年に行きましたが、現地のご門徒信者、日系人の門徒さんが、日本人の私たちより大きな声で「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と声にされていたのには驚きと感動がありました。
日本人じゃないんですよ。英語を喋るアメリカ人(日系)が称えるお念仏をホールいっぱいに響くほどの声で聞いたことは初めてでした。
もちろんうるさいなどと思わなかったし嬉しかった。
ご門主(大谷光真さま)が壇上に姿を見せると、日系のご門徒さんたちは皆立ち上がってのスタンディングオベーションで拍手をされました。これは私たち日本人には真似できない光景でした。感動で身体が震えたのを思い出しました。
また、さすがはご門主、挨拶も二か国語でされました。もちろんカンペ無しで。
格好いいって思いましたよ。
浄土真宗のお坊さんの中には、『重誓偈』の「獅子吼(ししく)」が好きなのか車のナンバーに「449」と付けている方がありますが、私は「獅子吼」のような「説法」をされている布教使さんを見たことがいまだにありません。ましてや「獅子吼えるほど法を説く」って凄いことですよね。と言うことは当然、お念仏もライオンが吼えるほどの声でお称えしておられるのでしょうか、と思っています。
私はいつもそうしてみようとは思っているのですが、どうにもそうできません。
確かに大きな声でするのは難しいし、号令をかけていただいても難しい。
慶應大学応援団の「大きな声で」じゃないですがライオンのようにはできません。
そもそも浄土真宗のお念仏は、お救いに出遇えた喜びと、救われた感謝のお念仏ですから自らの心からの声、言葉ではないでしょうか。
布教使の立場でも思います。たまに拍手をされたりする光景を見かけます。
ま、ないよりはいいのでしょうが、やはりナンマンダブツという声をいただく方がいいのです。布教は私が救うんじゃないし、阿弥陀さまの「使い」としての取り継ぎです。阿弥陀さまへの感謝、御礼は「ナンマンダブツ」の声です。
これが浄土真宗ではないのでしょうか。これこそ親鸞聖人のオススメされたお念仏ではないかと思うのです。
さて今年の築地本願寺さまの報恩講では、どれだけの「獅子吼」を見ることができるでしょうか、注目しています。是非、雅楽の音色に負けない大きな声でのお取り継ぎを私は期待しております。
また超法寺のご縁の方には、懇志をされる際に「築地本願寺いるま布教所 超法寺」と〈所属寺〉に書いていただけると住職も築地本願寺もよろこびます。
今日も、尊いみ名を(ナンマンダブツ)称えつつ、強く明るく生き抜きましょう。
ナンマンダブツ
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