皆さま、夜分にすみません。おはようございます。
昨夜は久しぶりにライオンズが勝ってくれて(甲斐野がヒヤッとしたが)
嬉しかったですね。まさか一点差で終わるとは思わなかったけど。
勝負は終わってみないとわからないのですね。
また、ウチの子が17度目の誕生日を迎えてこれまた嬉しいことでした。
この子にずっと助けられてきたのでわたしは感謝であります。
これからも生きてくれることを願うばかりです。
わたしたちが生きている世界は残念ながら思っているようには生きられません。
これだけは決して自分だけはと思わないことです。
「縁」が尽きれば終わっていかねばならないお互いであります。
それを思い通りにしようとするから「苦」となるのです。
浄土真宗のみ教えは、この真理をお聞きしながらそうなるんだぞと思いながら生きて、そうならなくなっても悲観せずに受け入れていくことなのです。
いつもお話ししますが、自分自身を第一に「明日ありと・・・」の人生であります。
人間とはついここを忘れて生きてしまうものです。
無常の世界は、「有ること」ばかりなのです。
無いことをどんなに願っても、全ては「因縁」によって「果」となります。
なぜ命終わっていくのか?それは生まれたからです。生まれたら迷いの命は必ず終わっていくのです。それなのに、長生きしても、健康でも、短命でも、常に病気であっても、「縁」が尽きれば今すぐでも終わっていかねばならないのです。
私たちが生まれてきたのは、阿弥陀さまとお遇いさせていただくためであります。
阿弥陀さまとお遇いするとは、南無阿弥陀仏の声を聞き、南無阿弥陀仏をこの口にお称えする私になるためです。死ぬまで「煩悩」から離られない私は、ただ死んだだけでは「迷いの命から脱却はできません」。
また地獄(自業苦)という、自分が作った世界に自らが落ちていくのです。
これを他力のおはたらきの阿弥陀さまの大慈悲心にお遇いさせていただくことによってのみ、「往生」させていただくことができるのです。
つまり、死ねば仏では無いのです。
阿弥陀さまの「ご本願」にお遇いさせていただくことが大事なのです。
なぜ生きるのか、それはこの世が無常(思い通りには生きられない)であることに気づくためであります。それなのに思い通りに生きようとするから「苦悩」するのです。
苦悩のまま、阿弥陀さまを仰ぎ、生かされて日々を過ごすことで本当の安らぎを知ることができるのです。人智に従っていてはここに気づくことはありません。
「わが死なば われの心にけざやかに 生きる夫もともに死ぬらむ」
[読売新聞 秦野市 深石ヒロさん]
「人間は二度死ぬ」二度の死は、あなたを思う人がこの世に一人もいなくなった時です。
ご法事は【報恩】の仏事であります。
義務では無いのです。
亡き人の人生を支え、浄土へお迎えくださった南無阿弥陀仏の阿弥陀さまと、亡き人が私にしてくださったさまざまなご恩に、有難うございますとお礼を申す貴重な場なのです。ご法事に集う人々の心の中に、称える南無阿弥陀仏のお念仏の中に、亡き人は生きてはたらいていてくださるのです。
それがわからないから、ご法事をやらなくなるのでしょうか。
感謝の思いがわからない、当たり前なんだと立ち振る舞うことは寂しいとわたしは思うのです。聞いてもわからないのに、聞かないでどうしてもわかるのだろうか、親心が。
平日の昼のテレビのCMは サプリに保険にとどめは墓石
[毎日新聞 吹田市 木村幸美さん]
父探し 先ずは地獄と 逝った母
[毎日新聞 横浜市 おっぺすさん]
※奥さんから地獄に堕ちたと思われているご主人さま。そのご主人を探して救わねば
と思う奥さんの慈愛ですが、さて救えるのでしょうか。
地獄にしか行き場所のない極重悪人のこの私のために南無阿弥陀仏とおはたらきくださる私はナンマンダブツとこの愚痴の口にいただくことができました。
そして仏に成ると決まったこの私です。
他人の苦しみ悲しみに少しでも心を寄せて、他人を責めないように裁かないように、そして他人の幸せを願うようにさせていただくのです。
お念仏を申す人は、浄土に生まれ仏に成る人生を歩みます。
人々を救う仏に成るのです。そのために浄土を願い、浄土に生まれて往くのです。
これを「往生」といいます。
お念仏を申しても、煩悩からは離れられません。
それでも口に南無阿弥陀仏と称え有難うございますと生きていきます。
少しでも仏さまの真似をして生きていくのです。
お念仏を称えるとは「有難うございます」と生きていくことなのです。
感謝のない人にはお念仏は称えられません。
当たり前と思っているうちは称えられません。
阿弥陀さまは有難うといえと言っているのではありませんよ。
私の心に感謝の心が起これば自然にそうなるのですよ。
後ろ手に歩く人をたまに見かけますが、そういう人は頭が下がることはありません。
わたしは恩師から、後ろ手を組むようなお坊さんにはなるなよって言われました。
ずっと実践しています。だから合掌も前に合わせるのでしょうね。
合掌、南無阿弥陀仏
תגובות