新たな試みから気づいたこと
- 超法寺の住職
- 5月1日
- 読了時間: 3分
皆さま、こんばんは。
今日は暖かな陽射しの一日でしたね。
連休のためあちこちかなり渋滞していましたがいかがお過ごしでしたか。
私は朝から横浜市金沢区までお参りへ行ってきました。
八景島シーパラダイス方面でしたからなかなかの混み具合でしたが早めに出てきて良かったです。もう慣れましたが身体には堪えますよ。
しかしながらお呼びがある限り、この身体が動くまではお勤めしたいと思います。
【われ称え われ聞くなれど南無阿弥陀 連れてゆくぞの 親のよび声】
いつもながら有難いお言葉であります。
救わずにはおれない他力本願(阿弥陀如来)のおはたらきであります。
私が聞こうと聞くまいと、称えようが称えまいが、何としても受け取らせて救おうという阿弥陀さまの力強いおはたらきであります。
ただ私はそれをそのままお伝えするお使いをするだけであります。
今回は[唯除の仏道]についてご紹介します。
阿弥陀さまがお誓いくだされた四十八の願いの中、中心となる願いをご本願(第十八願)と言います。
【設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法】[本願成就文]
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[訳]
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
私たちは浄土真宗だからとか、お念仏申せるから大丈夫とか油断してばかりじゃ無いでしょうか。またはそんなに悪いことはしていないとか。本当に自身が往生できるのかという課題に真正面から向き合った経典が『涅槃経』と言われています。
阿弥陀如来は凡夫こそを救いの真ん中にされています。しかし凡夫はこの世の快楽を追求するだけでさとりを求める心はありません。
思い通りになったと喜び、ならなかったと悲しんでいます。この煩悩が苦しみの原因でした。
しかし煩悩はそのまま、真実の安らぎを求めてゆきなさいと勧める仏さまであります。【大菩提心】
どういうことか、仏さまはお浄土という遠い遠い世界にいらっしゃるのではありません。
私たちの煩悩を抱いておられます。
つまり私たちは広大な仏さまの南無阿弥陀仏(お念仏)の大地の上に、それぞれの煩悩の花を咲かせておられるのです。
その世界が明らかになるとき、善悪を裁く思想から解放されて、地獄にしか行きようのない深い罪を抱いて人生を歩む大悲の仏道が始まるのです。
これこそが『唯除』と誓われた他力信心の道なのです。
※成仏できない者がいるとはどういうことか。
【難化の三機】
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【五逆】【誹謗】【一闡提】
【五逆】とは、父を殺し、母を殺し、僧侶を殺し、仏身から血を流させ、教団の和合を破る者。
【誹謗】とは、正しい教えを謗る者。
【一闡提】とは、梵語イッチャンティカの音訳で、この世の快楽のみを求めて仏法に全く無関心なもの。
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これを眺めているのではなく、自分をそこに置いたらこの地獄行きは誰でも無いこの私と知らされます。
ここがわからなくては阿弥陀如来のお慈悲の深さがわからないでしょう。
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「唯だ除く」と言われた対象にこそ阿弥陀如来の大悲が満ち溢れているのです。
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難化の三機とは、私のことなのです。
罪悪深重の我が身を底なしに救いたもう阿弥陀如来のお慈悲に照らされ導かれていることが【他力信心】の相(すがた)です。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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