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執筆者の写真超法寺の住職

我が母に勝る母ありなむや


皆さま、こんばんは。

今日は超法寺本堂で3回忌をお勤めしました。

お母さんのご法事でした。

あ〜、今年は我が母も3回忌だなぁ、早いなぁなどと思いながら『仏説阿弥陀経』をお勤めしました。

母を思うと暁烏敏[あけがらすはや]さんのお歌を思い出します。


 十億の人に十億の母あらむや 我が母にまさる母ありなむや


大変有名な歌です。

この方は真宗大谷派の学僧で1877〜1957


世界にはたくさんのお母さん(ママ)がいらっしゃいます。しかし、お母さんに【我が】と付かなければ私のことを愛し、私のしあわせを常に願ってくださるお母さんはありません。

私に関する限り、世界でただ一人の世界一のお母さんです。私はお母さんが大好きですが、そんなにいい子ではありませんでした。たくさん迷惑かけてきましたし、たくさん泣かせてきた私です。それでもお母さんは55年も私のお母さんでありました。


 ふるさとの 夢みんとして 枕べに

 母よりのふみ 積み上げてねる


福岡県の少年院にお勤めの先生が少年たちの歌をご紹介くださいました。

心温まりませんか。私は涙が出ました。世の中の人を困らせ、嫌われて少年院に来ることになった少年の切なる母への想い。


我が子のためにお母さんは、「積み上げる」ほどたくさんの母(親)心を手紙にして、この少年に注いでくださっているのです。

この母のやるせないお心に出会いますと、少年は手紙を粗末にすることができなかったのでしょう。宝物なのでしょうね。

私も母からの手紙はかけがえのない宝物です。

どれだけ大切にされていたのか、どれほど有難いことだったのか、母の心に背を向けて逆らって生きていたのかを痛感するのです。

それでもお母さんは最後まで優しく、笑顔でいてくれました。まさに仏さまのような人でした。


お母さんの心を憶念(おくねん)しながら眠るのです。


 われのみに わかるつたなき 母の文字

 友寝たればは しみじみと読む


我が母は達筆?亡きおじいちゃんと同じ字で難解な母の字でした。それでも読む私には

母の想いが伝わってくるのです。

どのような想いでお母さんがこの手紙を書いていたのか。跡取りにと思っていた我が子が出ていってしまった悲しみを常に胸にしまったまま。


 いれづみの 太き腕して 眠りいる

 友は母さんと つぶやきにけり


このような歌もあります。

きっと逞しい太い腕にタトゥーを入れて意地をはり悪者ぶって生きてきたのでしょうか。

尾崎豊さんの歌詞ではありませんが『卒業』にそんなフレーズが出てきますよね。

お母さんを泣かせ、世間の人を困らせながらの人生だったのでしょう。

どんなに強がりを見せても、我が母を本当に嫌いになれる子どもはいませんよ(私はそう思っています)


このように私は、なかなか素直になることができません。思いはありながらも何かが遮ってしまう私たちだからこそ、子どもが我が母を想い続けているように仏さまは親のような存在でいてくださっているのでしょう。

浄土真宗のみ教えに出遇わせていただいていることは、一番身近なものとして親のようなはたらきと表現してくださっているのではないかと思うのです。


親鸞聖人は、ご和讃に

 釈迦弥陀は慈悲の父母

 種々に善巧方便し 

 われらが無上の信心を

 発起せしめたまへけり

と、教えてくださいます。


赤ちゃんの頃の私たちは、母の慈しみにすべてを委ねていましたよね。母を疑っていたらお乳も飲めなかっただろうし、抱っこもさせなかったんじゃないでしょうか。

どんなに泣いていても、母に抱かれたら安心して泣きやみ、母の胸でスヤスヤと眠ることができた私だったはずです。

それがなぜ、大人になったらそうできないのか。あまりに自己主張がつよくなったからではないでしょうか。大人ぶってみても、母から見た私はいつでも幼子のままです。


阿弥陀さまも、南無阿弥陀仏にすべてを込めて「声」となって私を常に包み込んでいてくださいます。その母心がわかれば、どれだけ安心して生きていけるのでしょうね。

お母さん、有難う。

南無阿弥陀仏、ナンマンダブツ•••••。

教えてくれて有難う。

称えるようにしてくれて有難う。


お母さんはやっぱり仏さまだったのですね。

後どれくらい生きていられるかわからないけど、お母さんが育んでくれたこの命、生きていきます。私はあなたの子で良かった。

感謝しております。

南無阿弥陀仏

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