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成し遂げられない私の為に

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、おはようございます。

今日もスッキリ快晴であります。

有難いですね。二月も折り返し、実に早い。

無常世界は「迅速」

若い若いと思っていてもあっという間であります。油断していてはなりませんぞ。

あっという間に私の番が来ます。


「なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて力なくしてをわるとき、かの土へは参るべきなり」  『歎異抄』


娑婆の縁は人それぞれであります。

若いということも、元気だということも全く関係はないし、生きる保証とはなりません。

ましてや「死ねば仏」、死にさえいいなら神仏などいらっしゃらなくてもいい。

それなのに人間の「欲」というものは、常に自分にだけ甘い願いを持ち続けるもの。


「ウチは皆仲良くてね、幸せですよ」

そういっても残念ながら誰もあなたについてきてはくれません。

またあの世で•••ってどこで会うつもりなの?

天国?天国は神様との契約を守り切れた人しか生まれられませんけど。

だから「洗礼」という儀式があります。

そもそも洗礼すら受けていない人がどうやって行くつもりなのかなぁ。

自分では行けるはずもないのに。


もうそろそろその考え方やめてみませんか。

ただ虚しくなるばかり。

だったら仏さまがいるじゃないですか。

何としても自分の欲望、願望を叶えたい人はそうおっしゃるが、どうやって?

仏さまって砂の数だけいらっしゃるとお釈迦さまはおっしゃっていますよ。

しかしながら、自分では何もしない、やりかけてはやめてしまう、最後は他力本願だ、などと言われるような人を救える仏さまは、たった一人しかおられません。


さあ誰でしょうか。

他力本願って、人まかせにすることではありませんからね。「他力」も「本願」も、あの仏さましかお持ちではないのですからね。

あの仏さまとは•••••そう、阿弥陀如来さま。

阿弥陀とは、あみだくじでお馴染みのあの阿弥陀さまであります。


全ての救いに条件をつけずして、先手の仏さまになられたのです。

ではどうして先に動いてくださるのでしょうか。それはまるで親のようなものだからです。

「察する」のです。

お願いされてから動いていては間に合わない。

そしてあれこれ条件をつけても成し遂げられないし、飽きたらやめてしまう。


『般若心経』が好きな人はあまりに多いですね。これは素晴らしいお経ではありますが、修行の道を歩むためのもので、出家修行のできない在家の方にはなかなか難しいものです。

ですから誰でも彼でもこの道で救いが成就するには厳しいのですが、人間はわざわざそれを志す輩が一定数いらっしゃる。


そういう私も学生時分には比叡山で修行の真似事をしてみたことがありました。

今となれば良い経験でありましたが。

それをしたからこそ南無阿弥陀仏の他力本願を素直に受け入れていくことができました。


阿弥陀如来さまは、あらゆる人たちを南無阿弥陀仏一つで必ず往生させ、二度と迷いの境界とはしない素晴らしい教えを完成されました。

それはあらゆる神仏が讃えてくださるほどのものでありました。

それを親鸞聖人の『正信偈』に讃嘆されているのですね。【まかせよ、救う】の願いがたのむ前から私に届けられてあるのです。


阿弥陀さまはあらゆる命にその無条件のお救いを届けるために「声」の仏さまになられたのです。声となり、あらゆる場で喚び続けてくださいます。

しかしながら、なかなかまかせることができる私ではありません。それほど煩悩はこの身を離れない。だからこそ、煩悩を抱えたままでも容易に救われる道、他力の道をおススメくださいます。いつまで自力に憧れるのかな。


大谷翔平さんもWBC決勝でナインに言いましたよね。「憧れるのをやめましょう」

いつ辞めるの?「今でしょう」(もう古い)

皆さま、あらゆる立場で私たちに他力本願の道をおススメくださいます。

今すぐにでもお救いに遇える南無阿弥陀仏を称えてみましょう。「阿弥陀さま、煩悩に振り回され闇に惑う私をお救いくださって有難うございます」と声にする。それが声にして称えるお念仏ですよ。


他人から「念仏申しましょう」は、私の心からの有難うとは違う気がします。

蓮如さまも、「ご恩報謝の念仏とこころうべきなり」と、おっしゃっておられますよ。


有難う🎵感謝して🎵

今日一日、阿弥陀さまとご一緒の人生を歩ませていただきましょう。

これから診察に行きます。花の東京へ。

南無阿弥陀仏

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