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慌ただしく

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、こんばんは。いよいよ今年度も明日で終わります。

あっという間でありますね。ただ私の体調は全く良化せず我慢であります。

車が先に直って戻りました。保険屋さまからご報告をいただき、修理代が3桁だったそうです。頑丈な車でこれだけかかったのですから、いかに酷い事故であったかがお分かりだと思います。それでも入院などしている暇はありません。

いるま布教所は私一人で切り盛りをしているお寺ですから。

試練だと思い、これからもやるだけです。心なんか何度折れてもいいんですよ。

だって阿弥陀さまとご一緒ですから。阿弥陀さまがこらえてくださっていますからね。有難いです。勿体無いことです。


さて世間では、桜が咲いたと大喜びしているようですが、是非とも自身の儚い命が終わっていくんだという思いを忘れずに花見を堪能してくださいませ。

どこへ向かっていきているのかわからない人間がどうして安らかに生きていくことができるのでしょうか。嬉しいお酒が飲めますでしょうか。


散る桜 残る桜も散る桜


私たちも、若いだ、元気だと人生を謳歌していようとも、いざ、娑婆の縁が尽きたならば今夜でも命終わっていかねばなりません。人間は死んだだけでは良いあの世に行くことなどできません。「死ねば仏」!?

これはそういうことではなく、「阿弥陀さまの願いを信じて、私たちのように死ぬまで煩悩から離れられない凡夫を救いたいと親のようになり、南無阿弥陀仏という声となって喚んでいてくださいます。その声を受け止めて南無阿弥陀仏と称える人になってくれたら、阿弥陀は必ず安穏な浄土に生まれさせて、二度と輪廻転生しない悟りの命にするぞ」と他力の法をもってお救いくださるはたらきをされます。


聞いてくれないなら、聞いてくれるまで喚び通しに喚んでいてくださる仏さま。

親の名のりを声とこの愚痴の口に届けて、称える私にしてくださる仏さまが阿弥陀さまであります。さまざまな形で教えてくださる仏さまが我が親のような親なのです。

だから浄土真宗では、阿弥陀さまのことを【親さま】と言います。

親だから安心なのですよね。親鸞聖人は、「頼りにする」と【依憑】(えひょう)と申されます。寄りかかっていいのです。


阿弥陀さまは、私たちがこうなってほしくないことをお願いしたら聞き届けてくださる仏さまではありません。だって娑婆世界、諸行無常の世界では起こるものですから。

仏教の教えは、何があっても大丈夫!という、したたかで、それでいてたくましく、力の限りこの命を生き抜いていく道なのです。一人では心細く思うけれど、一人なんかじゃないよ。阿弥陀さまが常にご一緒くださいますから安心なのですよ。

これは真摯に仏法を聴聞するからこそ知ることができます。

お救いをいつもこっち(人間)に置いておこうとするから阿弥陀さまの親心がわからないのですよ。こっちじゃないのですよ。あっち(阿弥陀さま)の都合に合わせるから煩悩具足の愚痴ばかりで自分勝手な私が往生することができるのですよ。

人間はすぐここっちに仏さまをもってこようとします。これではいくら阿弥陀さまが頼もしくても意味がありません。


「今」を生きていくのです。今を阿弥陀さまとご一緒に生きていくのです。

阿弥陀さまという親にまかせて私が私を生きていきさえすればいいのです。

そうなるには、仏法聴聞を真剣に重ねていくしかないのです。

私が私でよかったと思える私になることが願われているのですから。

それが阿弥陀さまの願い、皆さまのご先祖の願い。

そういう自分になれたら亡き人もきっと安らかになるのではないでしょうか。

私はそう思います。


身体はあちこち辛くても、まだ動けるから有難いです。

少しずつ荷物を新居に持っていく毎日です。

リフォームが始まる二週間後までどれくらい持っていけるかな。

ここも原状回復する必要がありますから。

2階の荷物を優先的に運ぼうと思います。これじゃムチウチが良くなることがないのでしょうね。でも動きますよ。

皆さまもどうぞお身体には十分ご自愛ください。

南無阿弥陀仏

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