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執筆者の写真超法寺の住職

わたしが愚を知ると

更新日:2023年12月4日

皆さま、おはようございます。

夢のような日々が終わり、いつもの朝を

迎えています。

今日も爽やかな朝です。そして二度と同じことのない一日です。生きることを許された朝です。是非、大切に過ごしたいと思います。


今朝は、「愚者の喜び」『拝読 浄土真宗のみ教え』をご紹介します。


阿弥陀如来は、「必ず救う、われにまかせよ」とよびかけておられる。そのよび声を通して、確かな救いのなかにあることをよろこぶとともに、ありのままの私の姿を知らせていただく。

如来の光に照らされて見えてきた私の姿は、煩悩に満ちみちた迷いの凡夫であった。

確かなものなど何一つ持ち得ない愚かな私であったと気づかされる。


親鸞聖人は、法然聖人より、


【愚者になりて往生す】


との言葉をうけたまわり、感慨をもってお手紙の中に記された。

このような私だからこそ、救わずにはおれないと、如来は限りない大悲を注いでおられる。

この深き恵みをよろこばせていただくより他はない。



私たちは、知識としてこれらを判断しようとします。しかしながら、これは仏の側とは全く違うものなのです。知識があるかないかをおっしゃっているのではありません。

仏教での賢者とは、知識や教養を持った者のことではありません。あらゆる煩悩を克服して、欲望や怒りの感情に振り回されず、「私の•••」、「自分の•••」という執着を離れて、無我の境地に達した覚者(真実に目覚めた者)です。

残念ながら、そのような賢者への道を閉ざされている私たちですが、内側に明るい者として生きる道があるのです。

知識ではなく、阿弥陀如来の智慧を軸とした生き方への転換です。


智慧は「灯火」であり「光」ですから、照らされると自分の正体や本性が浮き彫りになります。

そのことを木村無相さんの「あかり」という詩には、


「煩悩具足のボロ家にナモアミダブツが住みついて、あかりがついてボロ家の、おんボロボロが見えまする、南無阿弥陀仏と見えまする」


とあります。これは自分は間違いないと思い込んで生きている私が、阿弥陀如来のお慈悲の光に照らされて初めて、煩悩具足でおんボロボロだらけの自分に気づかされるのです。

阿弥陀如来は、そのような私を見捨てることなく、ナモアミダブツの声一つで「必ず」救う、救わずにはおれないと阿弥陀如来の方からはたらいていてくださいます。


私たちはそのご恩にナンマンダブツとお念仏を申させていただくのです。


私に救われた喜びがなければ、ありがとうございますという声は出ません。

喜びの声こそが、他力のお念仏でありますから、阿弥陀如来の親心が私に届いたならば、必ず南無阿弥陀仏と声になってあらわれるのです。


皆さまの口は、皆さまの声は、南無阿弥陀仏と動いてくださいますか。

動いていないならまだ自分を信じて、自分を頼りにして、自分が頑張っているということです。つまり他力ではないです。

自力では私は往生することはありません。


どうぞ、私の愚に気づかされて賢者とならせていただいて、この命終わったら【往生】させていただきましょう。


さて今日も阿弥陀如来のお慈悲に照らされて、御礼のナンマンダブツを称えながら、強く明るく生きていきましょう。

南無阿弥陀仏

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