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執筆者の写真超法寺の住職

悲しみを生まないためには

今日も一日【執着(しゅうじゃく)】と闘いました。もう何年、何十年経つのだろうか。

日々、念仏(南無阿弥陀仏)をお称えしながら日暮しを重ねながらも、また仏法聴聞をしても何ら変わらないのはなぜだろう。


それはあらゆるものに私が【執着】しているからに他ならない。


悲しみがあるのではない。

これは自分のものと執着したものが朽ちるから悲しむのです。


持つとは何か、所有とは何か。

それは本当にお前のものであったためしがあったのか?

そのことを悲しむのか。

お前さえ【執着】しなければ、その悲しみはなかったのに。


お聴聞を繰り返しておりますと、阿弥陀さまのお心が私の心に届いたら、有難いなぁと喜ぶ心よりも、いつも自分勝手で他者を責める心と言葉しか持ち得ない私の本性を見抜かれて、お恥ずかしい心が先ず私の心に生まれ湧いてくるようであります。


南無阿弥陀仏を称えながら生きるを知らされた私ですらこうなのに、南無阿弥陀仏を知らない人は一体どのような人生になってしまうのだろうか。

自分だけは間違いないと学歴や会社の役職や給料の多さのみをバロメーターに生きている人は、それがひっくり返った時にどうなるのかな。


浄土真宗をお開きくだされた親鸞聖人さまは、ご縁をいただいた阿弥陀如来のお心が凡夫(ぼんぶ)🟰死ぬまで煩悩から離れられない者の私に届いてくださるのを、【真実信心】と仰がれました。


決して、凡夫の私の心で認めた心を[信心]とは申してはおられません。


聞思莫遅慮

「聞思して遅慮することなかれ」[総序]



私の浅はかな知識で物事の真偽をはからずに、真実なる弥陀のはたらきを仰いで生きていきたいものですね。

実際はなかなかしんどくて、そうは実践できないのですが。


【執着】は南無阿弥陀仏を私の身心にいただけば少しずつ、少しずつ、少〜しずつ、離れていくのであります。


だからこそ、悲しい時には泣くがいいのです。

我慢することはありません。

泣きながら、泣きながら、口にナンマンダブツ、ナンマンダブツと称えながら、また泣くのです。

きっと阿弥陀さまが悲しみの底から引き上げてくださいます。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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