top of page
執筆者の写真超法寺の住職

悪人の自覚ありますか

皆さま、こんばんは。

今日は朝から立川市までお参りへ行きました。前回は近隣での事故により周辺が大渋滞するアクシデント。遅刻しそうになりかなり焦りました。そのため今回は早めに出ました•••それでもやはり立川市〜国立市は通勤ラッシュで時間がかかりました。


油断ならぬ朝の都内であります。

ゲーグルマップやyahooマップはなかなか最近では特に朝のラッシュでは確実な時間ではないように感じます。

お仕事だからやはり遅れることは絶対NGだから、なるべく早く現地へ到着することを最優先にしたい。

超法寺が最近お仕事をコンスタントにいただけているのは、やはり予定より早く到着することを大切にしているからだと思う。


生前父が、「屁ひとつ」と言っていたのはこういうことではないかと受け止めています。


若い頃の私は寝たいだけ寝て、寝坊常習者でしたから。お恥ずかしい。

きっと色んなものに甘えていたんだろうね。

今は経営者の端くれとして緊張感持ってやっている。


立場が人を変えるとはよく言ったものです。


さてこの度は、さまざまな事件、ニュースの旅に皆さまがSNSでコメントをされています。

自分は正しいコメントを言い、いかにも犯罪とは無関係な生活を送っているような気がしているが、本当にそうなのか。


お互いに考えてみたい。


【碍(さわり)なく すべてを照らす み光りは さわりある身のうえにこそ照る】〈臼杵祖山〉大分県出身


夏目漱石に『吾輩は猫である』という名作があります。その中に、

「昔の人は己を忘れろと教えたものだ。今の人は己を忘れるなと教えるからまるで違う。二六時中己れという意識をもって充満している。それだから、二六時中太平のときはない。いつでも焦熱地獄だ。」という一節がある。


確かに夏目漱石の言葉の通りです。

現在でも世の中はこの通りで何も変わらない。

あまりに大人は素直になれずにいる。

先日も、お参りに行った際、「正座などしないでくださいね」と言ったにもかかわらず、やはり大人は皆、正座をしていた。

素直なのは子どもだけでした。


お寺さんは皆さんが足が痛くなるのを気遣いで言ったのに素直に受け取れない。

だからもちろん、阿弥陀さまが南無阿弥陀仏と喚んでいてくださっても受け取れないのは致し方ないです。

それでも阿弥陀さまは変わらずに喚んでいてくださいます。


人間はさまざまなことを考えていることは素晴らしいのですが、逆にそのことに「固辞」してしまうのが悲しいことです。

自分は正しい•••から逃れられない。

だから素直になれないのでしょうか。


しかしながら仏から見た私たちは、間違いだらけであるのです。

間違えている私を責めもせずにそのまま「我にまかせよ、我が名を称えてくれよ。必ず浄土に生まれさせ仏のさとりにする」と、願い続けておられるのです。


私たちは考える中には間違いなく【執】という煩悩がついてまわるのだ。

そこをついつい忘れて、厳しく見ていく眼を失いがちなのですね。


臼杵祖山さんは、『大無量寿経五悪段講話』のなかで、

【いまだ覚醒しないひとにおいては、けっして悪人ではありえないということであります。みなみずからおごれる善人ばかりであります。

このみずからおごれる善人には、気の毒ながら、なんらの平和も、安住も得られない。悪人という自覚、それはなんという尊い自己自照の明鏡でありましょうか。

また自己審判の最上でありましょうか。】と、「自ら驕れる善人」であることの愚かさを戒めています。


人は自らの意識を持ってしては、自らをありのまにみることはできないのです。

自分の顔は鏡によって見ることができるが、反対に見えている。


本当の自分に出会うとは、教えに遇い、教えを聞くということは、本当の自分に出会うとはということでもあるのですね。


【悪人】とは、煩悩(我欲)にさいなまれ、常に自分の側に立ってでしか物事が考えられないものを言います。


それを【有碍人(うげにん)】とも称されるのです。そして、自らを良しとする思いに住する人、それが【自ら驕れる善人】と言われるのでしょう。


臼杵祖山は、

【あの動物にも嘲笑するどころではない。かれらはあさましくあわれにおもわれる以上に、あさましく哀れなものを、多量に多数に、この私自身の中にもっておるということであります。

そのあさましい哀れなことは、あの動物のことではなくして、この人間である私にこそあるのです。】という自己にめざめることの大切さをこそ知りたいものです。


【悪人】というも【有碍人】というも、まさに私の代名詞ですから。


あさましい私を私たちは善人だと思って生きている、だから犯罪は無くならないのだ。


悪人の自覚を持つには、仏法聴聞に勤しむしか道はございません。

どうぞ怠らずにお聴聞しで日々を過ごしてみませんか?

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏



閲覧数:27回

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page