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執筆者の写真超法寺の住職

思い通りにはならぬ人生

皆さま、こんにちは。

いやはや今日は今年1番を感じるほどの暑さを感じました。氷を張ったバスタブに浸かりました。まるで生前、現役だったアントニオ猪木さんのごとくでありました。

さすがはロックアイスです。

なかなか溶けなくて気分は南極笑笑


しかし出て少しするとまた激暑。

再びバスタブへ直行です。ははは。

今年の七月盆は今までにはなくたくさんご依頼をいただきありがとうございました。

私の身体を気遣ってさまざまな暑さ対策をなさってくださり感謝申し上げます。

おかげさまでこの暑さの中、無事にお参りを勤めることができました。


また今日も海難事故の報道がありました。

日本のこれからを担う若者が命を落とす姿に合掌念仏。南無阿弥陀仏。


このようになかなか普段と変わらない日を過ごすことは当たり前ではありません。

いつも通りの一日を過ごすことができることは実は大変しあわせなことなのです。

そう思いながら「今」を生きていきたいものです。


あるお寺のお話をご紹介します。

《両親(おや)おくり 妻さきにゆき 子のいそぐ あかねの雲は美しき哉(かな)》


このうたを読まれた方は、京都の浄土真宗のご住職でした。

京都大学院に在籍し、インドに留学していた一人息子が帰国し、昭和49年から東海大学の助教授なられた。ご住職はその年に長い間、仏教学の教授として勤められた龍谷大学を定年より早く退職されました。親子二人が大学勤めでは、ご門徒に迷惑をかけるとの理由からでした。

奥さまと二人、自らの学問研究とご門徒の仏事を勤める穏やかな生活が始まりました。


しかしそれも束の間、三年後の昭和52年に奥さまが突然の病で亡くなられました。

ご住職63歳、お寺で初老の男ヤモメの一人暮らし。それから一年後、自らの火の不始末で火事を出し、本堂、庫裏(お寺さんの住居)が全焼。

ご門徒の懇念で、二年後に再建されました。

新築されたお寺で、再建工事以来お寺に帰ってきてくれた息子の嫁と二人の孫との生活になりました。

ところが一年後、東京の息子と連絡が取れない。東京の息子の下宿に行くと、息子は亡くなられていたのでした。

悲痛の中、東京で火葬し遺骨にして連れ帰り、新しい本堂でお葬式を勤められました。

幼稚園に通う二人の孫をそばに立たせ「二人が大きくなってお寺を継いでくれるまで、私が頑張ります」と、挨拶をされました。


ところがその一年後、一周忌のご法事を勤められた翌日、息子さんのお嫁さんは二人の子どもを連れて実家に帰られたそうです。


ご住職は68歳、一人になられた時に冒頭のうたを詠まれたのです。


《両親おくり 妻さきにゆき 子のいそぐ あかねの雲は美しき哉》


心痛まれますね。

きっと計り知れないショックであったことでしょう。なぜだ、どうしてだ、繰り返し自問自答したことでしょう。お念仏を申す中にでさえ到底理解のできるものではなかったのでしょう。

これほどの激動な出来事をどう考え受け入れたらよいのでしょう。まさか、まさかはこの無常世界(人間)では有ることばかりなのです。

どれほど辛く悲しまれたことでしょうか。


「あかねの雲」とは、西に沈みゆく太陽の光を受け、茜色に輝く夕暮れ前の雲のこと。


「雲」とは、【煩悩】のことです。

先に逝った者たちに対する恨みつらみや愚痴、孫二人を連れて出て行った嫁に対する恨みや怒りの煩悩が起こるのです。


太陽の沈みゆく西方浄土に往った両親や妻、我が子が、浄土からの光、はたらき【南無阿弥陀仏】となって、我が身の煩悩具足のあさましい姿を照らすのです。


【大悲無倦常照我】(だいひむけんじょうしょうが)


そして照らすだけではなく、その光、はたらきが我が身を責めるのでもなく、そのまま包んでいてくださるのです。光に照らされる茜の雲は美しい。残り少ない我が人生、決して美しくは生きれないけれども、お浄土からの光【南無阿弥陀仏】に照らされ包まれて生きてゆこう。


お浄土に生まれていくこのお念仏【南無阿弥陀仏】を称えながら生きていく道を歩ませていただこうと、ご住職は75歳でご往生されました。


生きるとは厳しいです。

一見、何不自由のない人生に見えたものが、あるきっかけであっという間に崩れていく人間世界の有様をご紹介いたしました。

とても他人事には思えません。

私自身も、ずっと当たり前のようであったものがこのたった6年余りで劇的に変わってしまったのですから。

まさか、まさかはどこにある。

「邪見」の私のここにある。


だからこそ阿弥陀さまは、ご本願を誓われ私たちに真の道を歩んでくれよと、願い続け、はたらき続け、喚び続けていてくださるのです。

それでも、当たり前、当たり前と「邪見」の道を宛にならないものに頼り生きていこうとする人間のあさましい姿があるのでしょう。


邪見の私たちが真の人生を歩むためには、南無阿弥陀仏を声に称えて、阿弥陀さまと二人連れという思いを胸に生きていくことなのでしょうね。


南無阿弥陀仏

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