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執筆者の写真超法寺の住職

思いやりを持とう

皆さま、おはようございます。

おかげさまで今朝もいても通りの朝を迎えています。昨日の出来事が夢の如く、それでも現実です。しかしながら諸行無常の世界は立ち止まることを一瞬たりとも許してはくださいません。なったものはなったまんまに過ぎ去る。だからといって事実を避けることも誤魔化すこともできません。粛々と受け止めていかねばなりません。悲しいけれどそれが人生なのですね。


いよいよ築地本願寺の常例布教まで一週間。

また明日は超法寺の報恩講であります。

どれほどの方がお参りくださるか楽しみです。

新規の方があれば住職は喜びます。

これから定期検診で千葉まで行きます。

もちろん安全運転で参りたいです。

お華もいけなきゃね。

やることたくさんでハードではありますがワクワク感は高まります。


[思いやり]

自分が自分を大事にするのと同じように、他人(ひと)もまた自分を大事にしていることを忘れてはならない。(武内紹見氏)



人間は誰でも自分を大事にいたします。

自分に身近なものはなんでも大事なのですが、その中でも特に自分自身ほど大事なものはありません。

そこに人間の欲があるのです。

このことを仏教では「我欲」といって人間の苦しみや悲しみのみなもとである煩悩の根本であるといっております。自分の思いどおりになるような世の中ができればどんなに自由なよりよい社会ができるだろうかといった間違った思いをもっているようです。けれども一人一人が自分の思うように行動すればお互いにこれほど不自由なことはありません。


それは、自分が自分を大事にしているのと同じように他人(ひと)もまた自分を大事にしているということを忘れているからです。


「ひとの身になる」という言葉がありますが、本当に自分を捨てることができなくて「ひとの身になる」ことができるのでしょうか。

腹が立ったときに自分も悪くなかったかを考えるそのことが自分の腹立ちをおさめるもので、そうした中に本当の「思いやり」の心が生まれてくるのだと思います。



いかがでしょうか。とかく自分を肯定しようとすると相手を置き去りにしてしまう。だから争いもあり、お互いに傷つけあわねばならないのでしょうね。人間は一人では生きられない。

必ず誰かの大切な人であり、誰かに思われています。だから自分だけという間違った思いをもって相手に対したら必ずトラブルとなります。そのことを普段からお聞かせいただくことがやはり大事なのでしょう。

それを仏法聴聞、寺に参るとはそういう私になるということではないかと私は思います。


聞いてもわからない私です。

では聞かないでどうしてそのことがかわりますか?わからないですよね。

だからこそ、さまざまな出来事に出会うのではないかと思います。


なるようになる。

なるようにはなる。

そのように思っていれば、なるようになる。


恩師の言葉です。

なるよいにしか生きられないお互いです。

なるべく争いとせずに、お互いさまと受け止めて生きていきたいものです。

ナンマンダブツ

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