【念仏は救済を求むる声ではなくして、救われていく生活さながらの叫びである。】
「更生の前後」1919(大正8)年
本当の仏の生きた心に触れる、それが真宗です。
ともすると南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と口先で称えることが念仏だと思うておる人があるが、それは間違いである。
「大行」(だいぎょう)とは則ち無碍光如来(むげこうにょらい)の名を称するねり」と、み教えを受けた。
本当の行は魚食わんのでもない。妻持たぬのでもない、本当の行は仏を念ずることである。仏は法の体験者である。法自身の表れである。仏を念ずるその心が行である。
大行とは、法それ自身を自分に行うていくことである。
法は人格の上でいえば行である。仏を念ずるということが大行である。
人格の中心に触れるのです。自分自らが仏の中心に躍り込むのです。
これが【念仏】である。
人は形にとらわれて感服(かんぷく)したりしなかったりする。
そういうところに生活の本拠を持っておれば淋しい道を歩むことになる。
大慈大悲の本願に溶け込む、本願に乗托(じょうたく)して念仏する道は、全身そこに投げ出して、仏の精神を自分のうちにいただく。
それが大道理をいただくのである。仏のお心に身も心も順う(したがう)のである。
「教行信証講話」1935(昭和10)年 暁烏敏師
どんな素晴らしい他力念仏の道も、こちらへ持ってきたらあっという間にちっちゃな仏さまになって有り難くなくなってしまいます。とかく人間とはそうしてしまうものであります。お恥ずかしいことであります。
「まかせよ、救う」という世界は、私の手垢をつけてはならないものであります。
やはり聴聞を怠るものには決してわからない仏の大行であります。
親鸞聖人は広大無辺と仰るのに、私の物差しで仏をはからおうとするから仏が水滴ほどのものになって広大ではなくなるのです。この理屈は仏法聴聞しなければわかりません。ぼんやり聞いていてもやはりわかりません。
【念仏成仏これ真宗】というのに、お念仏も申さない凡夫たる人間がどうやって往生するつもちなのでしょうか。これが人間の浅ましい姿であります。
こんな子どもでもわかるという真理がどうしても知識豊富な大人がわからないのでしょうか。きっと煩悩具足の身であるからではないのでしょうか。
俺が(我)、私が(我)を捨てて、おかげさまといただいて(言葉だけは皆さまよく使われるが)有難うございますと生きていく。その思いがそのまま南無阿弥陀仏の声となっていくのです。ならない人はやっぱり(我)が捨てられずにいる証拠です。
人間は一人では生きられません。誰かの支えがあってこそであります。
私が頑張ればこそ、として争うは起こるもの。
だから、あなたがいてくれたおかげで、あなたのおかげでなんとかできているんですよね、と「おかげ」をこちらに持ってくるのではなく、「あちら」にするだけです嘘のように夫婦も嫁姑も皆、争わなくなるものです。
せっかく縁があったから夫婦になれた。それなのに我を優先して相手を責めたからこそ、離縁という愚かな悲劇を迎えることになったのですよ。
誰が悪いんじゃないのさ。自分が「我」を、我という刀を振り回したからそうなったのです。自分が愚かであっただけであります。仏法聴聞するとはその愚かな自身の姿を知らされていくことであります。今更ながら自身の愚かさを痛感する私であります。真摯に向き合っていなかったなあ。
後悔先に立たずであります。でもいいもんでしたよね。
ですから皆さまも是非添い遂げてくださいませ。
南無阿弥陀仏
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