念仏すれば何をしても?

皆さま、こんばんは。

昨日は私が実家を出てから初めての埼玉組(そ)の一員としての行事でした。

ワクワクしながらも、未だに私を受け入れようとはしない「目」がある現実をも体感しました。埼玉組の一員になり早5年を迎えたとしても未だに•••。

それでも多くのご寺院の方々は温かいお言葉をかけてくださいました。


「大丈夫だよ、阿弥陀さまがおられるんだから」


富士見市のご住職のお言葉です。

それ以外は何もおっしゃっらず、ただニコニコされておられました。

ジ〜ンとしました。


さて日頃から、[死んだら仏になる]と、お聞かせいただきますが、本当なのでしょうか。

浄土真宗だからとか、お念仏を称えたからとか

間違いないのでしょうか。


しっかりと訪ねてください。

『歎異抄』には、【弥陀の本願を信じ、念仏もうさば仏となる】とあります。


そうですね。弥陀の本願も信じないし、念仏も申さない者を救うとは一言もおっしゃっておられません。


では弥陀の本願とはなんでしょうか。

「我(阿弥陀)にまかせよ、我が名(南無阿弥陀仏)を申せよ、必ず二度と迷わない、苦しまない、安穏な世界(浄土)に生まれさせて仏にする阿弥陀如来の誓い(願いの根本)」


私には疑いの心はあっても何があっても信じ抜く力はございません。

だから全て阿弥陀さまの他力のお力によってのみ救われるのであります。


阿弥陀さまを我が身にいただいても、他者を謗ったり、冷たくしたり、排除したりするのはまだ阿弥陀さまを疑っておられる証拠です。

「我」(が)が力強い人は他力にはなっていないのです。


今は亡き松林宗恵師は、

ガ行の法則とご教示くださいました。

「我(ガ)を捨てて、おかげ(ゲ)に生きる」

のだと。


おかげさまの世界はまさに御同朋(おんどうぼう)、御同行(おんどうぎょう)の世界なのであります。


だから、おまかせできている人は偉くも無いのに偉そうにしますよね。

後ろ手にしている人は、自分は偉い!という姿なんだそうですよ。(皆さまは大丈夫かな)

お寺さんの立ち姿をよく見てくださいね。


だって阿弥陀さまはどんな立ち姿ですか?

えっへん!私は偉いんだぞ!と後ろ手にお立ちしていますか?いませんよね。

必ず手を前にしておられるじゃないですか。


【実るほど、頭(こうべ)を垂れる稲穂かな】


稲穂でさえ頭を下げているというのに、阿弥陀さまを仰いで生きている念仏者がふんぞり返っている姿は実に恥ずかしい。


色んなことを教えていただいた、お待ち受け法要でありました。人間模様は面白い。


阿弥陀さまをそのまま受けてこそ、地獄(自業苦)に堕ちるしかないこの私がお浄土へ救われる喜びを感じることができるのでしょう。


何でもかんでも死ねば仏になれるほど甘くはありませんよ。親鸞聖人はご和讃でも戒めておられますよ。


お聴聞は、何を聞くのか?

地獄行きの私の浅ましい姿を知らされ、間違いなく地獄行きの私が阿弥陀さまの他力のお力ひとつにてお浄土へ生まれさせていただき仏になる不可思議な世界を聞くのです。


最後に小林一茶さんのお詠みくだされた、お言葉をご紹介します。


《後生(ごしょう)の一大事は、その身を如来の御前(おんまえ)に投げ出して、地獄なりとも極楽なりとも、あなた様の御(お)はからひ次第あそばされくださりませと、御頼(おたの)み申すばかり也…..ともかくも、あなた任せのとしの暮れ」[文政二年(1819)]


※「あなた」とは阿弥陀如来のこと。


阿弥陀如来を信じ、たよりとする素直な心が一茶の言葉には表されていますよね。


誰にでも明るく、誰にでも優しくなれる。

そんなお寺を目指して私は日々お念仏を仰ぎながら生きています。


皆さまもどうぞ、頼りない自分の心など当てにせずに南無阿弥陀仏の声を頼りに生きてみませんか?南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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